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曹洞宗巖枩山温泉寺。文禄2年(1593)秋田松原補陀寺11世天室宗龍大和尚開山。
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二井田真中土地改良区のHPによりますと、温泉寺13世麒峰祖麒大和尚は曹洞宗大本山能登総持寺の輪番を勤めたそうです。明治の戊辰戦争では堂宇、書類、什物のほとんどを焼失しましたが、堂宇は明治23年に再建。庭園は江戸時代に創設されたと伝えられ、多数の各種各様の庭園木があって変化に富んでいます。入口には高さ2m近い石地蔵が立っており、伝えによると賽の河原の地蔵をかたどったものと云われており、村では子供が亡くなったときはこの地蔵にお祈りするそう。地蔵の背中には「元禄12年5月24日施主細田屋名兵衛」と刻まれているそうです。頭の部分にえぐり取られたような傷跡があり、伝えによると戊辰の役の時の流れ弾によるものだといいます。
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こちらの地蔵ですね。
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向かって一番左です。しかし肝心の頭部が見えませんでした。
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地蔵堂内には絵馬のように小さな地蔵がたくさん掛けられていましたが、賽の河原といった雰囲気はなく、「野球がうまくなりますように」などといった願掛けが見られました。
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周囲には陸軍・海軍兵の墓や忠魂碑がありました。
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六地蔵。
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手水舎。
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荼枳尼天稲荷大明神。
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病気平癒・農耕守護神。
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慈母観音。
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寺務所。
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石灯篭一対。
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本堂。
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唐破風懸魚・木鼻など。
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安藤昌益之墓へ。墓まではいくつかの案内看板が設置されているので迷わず辿り着けます。発見された頃は地べたに置かれている状態だったといいます。
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安藤昌益の墓(秋田県指定史跡)…『江戸時代中期の思想家・医師である安藤昌益は、1703年にここ大館市二井田の農家に生まれた。当時の日本は江戸幕府が支配する封建社会でしたが、青森県八戸市で町医者をしていた安藤昌益はその身分制度を根本から否定し、農業を中心とした平等な社会を理想として説きました。その思想を記した著書「自然真営道」が、後に同じく大館市出身の教育者である狩野亨吉によって発見され、近代の社会主義、共産主義に通じる思想をもった人物としてその存在が世に知られることとなりました。1758年には故郷に戻り、医者を続けながら村人を凶作の疲弊から救うなど村に大きく貢献しましたが、1762年に病死し、ここ温泉寺にその墓が残されています。』
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安藤昌益…『安藤昌益は江戸時代中期の思想家で、封建制を否定した最初の人物として有名である。その経歴の全体はまだ明らかになっていないが、元禄16年(1703)に生まれて、延享元年(1744)から同3年(1746)までの間、八戸で町医者を開業し、宝暦12年(1762)二井田で死去したことは確実である。昌益の先祖は延宝2年(1674)二井田村肝煎(今の村長)を勤め、昌益の子孫も当地に現住している。著書に、稿本「自然真営道」・刊本「自然真営道」・「統道真伝」などがある。向かって右の将棋駒型の墓には、上段右に堅勝道因士と古い戒名と思われるものが刻まれ、左の角柱型の墓には、昌安久益信士という戒名が刻まれている。』
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向かって右の墓。
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向かって左の墓。
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