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十和田市元町西1丁目に鎮座。神明宮。
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元町神明宮…『主祭神:天照皇大神。祭神:八幡大神、春日大神。天明時代元村は、51軒の集落であったと伝えられております。世に云う天明飢饉により死者続出したと云われ、この時、髙天原において天照大御神(神宮では天照坐皇大御神と称す)より授けられた八咫鏡を祀られている。伊勢神宮の神託が三本木作助氏の夢にあって餓死者の冥福を祈る為、神明宮を祀り銀杏を植樹されたと語り伝えられております。また、岩手県駒ヶ嶽山頂(1,130メートル)より「駒形にます山の神」の神馬にて天照大御神は八幡大神、春日大神を御供に当地に天下りしたと語り伝えられ、時の神馬を蒼前神社と称し又、後世には三本木作助氏の神道の心を賛え神明宮と共に配祀致しております。山道石五郎』
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社殿。
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社殿内。
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神明宮の横にある駒形神社(蒼前神社)。
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元町(三本木村)の歴史案内板より…『●三本木村(元町)…ここの村がいつ頃成立されたかはっきりと分からない。言伝えでは嘉暦元年(1326)又は、天正13年頃(1585)と伝えられている。最初に作助が来てその後、山崎家・桜田家が同時期頃来たと語られている。史料では今から366年前「南部領内総絵図」正保4年(1647)30石余の年貢を納めているのが最初である。推定20軒以下。次に「寛文三本木村絵図」寛文5年(1665)には近隣村・一里塚は3ヶ所記されている。村内は蒼前林(現在稲生町稲荷神社)他村との境まで記されている。※「元禄絵図」元禄2年(1689)今から324年前、赤沼を中心に書かれているが、三本木村には植立木列(防風林)が記されている。現在土手山の槻巨木がそのことを語っている。昭和38年頃、現在の十和田通り大竹菓子店東・益川病院西・稲生町17-21の3ヶ所に5・6本ずつ残っていた。その後、昭和48年頃伐採された。※「三本木御見分假小高帖」寛保3年(1743)には51石余年貢。34軒(人名、石高が記されている)1軒あたり1石5斗余。(この史料は川合勇太郎が昭和4年に「三本木平と共開拓以前」を自費出版した中に記されている。この本は元町を中心に書かれている。当時はまだ古文書が多く残っていた。)●神明宮…この祠は、三本木荒野を初めて切り拓いた作助が伊勢神宮より勧請し、信仰したお宮と伝えられている。初代作助は現在の盛岡から鍬1丁・馬1頭で三本木(元村)を開拓した人であった。祭神は天照大神。神社の創建年代がはっきり分からないが、前回お宮の改築、明治16年(1883)の時、村の若者達が棟札を燃してしまった。それを聞いた山崎三六(87才)が大変悔しがって若者たちより年号を聞いたら今から554年前の嘉暦元年(1326)だと言った。また別の伝えでは太閤様(豊臣秀吉)の時代(1585年頃か)とも伝えられている。前回改築のお宮は、1間4方で明治16年4月20日、前々回改築の時は3間半に2間のお宮であった。三本木村として史料に出てくるのは「南部領内総絵図」1647年であり、この神社もそれ以前に祀られていた。村も神社も今から366年以上古いのである。●蒼前神社…この祠は、初代作助の馬を祭ったお宮である。その馬を葬った所は現在の稲生町稲荷神社であったと云う。今も駒形神社とある。そのことが「寛文三本木絵図」(1655)「元禄絵図」(1689)の地図に「そせん」と記して森の中に鳥居とお宮が書かれている。作助がこの地にお宮を建て拝んだであろう。そのお宮である。むかしの古い盆踊りに「三本木作助ァ馬乗り上手でいっとき乗りだせァ盛岡まで」と唄われた。ここの神明宮・蒼善様の神主は、作助家であったが、享保7年(1722)に死絶えた。(1年間に作助弟・作助妻・作助嫁・作助・作助子が死亡・伝染病か)その後、親類であった山道家がお守をして現在にいたっている。平成24年9月吉日山崎栄作識・贈』
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同案内板略年表(平成24年9月吉日)。
正保以前は間遠地沢目・大清水沢頭に住んでいたと言い伝えられている。
1647(正保4年)366年前-「南部領内総絵図」に三本木村が記されている。年貢30石7斗7升2合畑含む。(下記写真①)
1665(寛文5)348年前-4月「寛文三本木絵図」範囲は凡そ南北3里・東西5里位。(下記写真②)
1682(天和2)331年前-5月高札(掲示板、タテ6尺ヨコ12尺)を三本木村に建てる。場所は現在元町西2丁目1の昭和シェル石油店の所。
1684(貞享元)329年前-「南部領高郷村帖」三本木村41石3斗9升5合。
1689(元禄2)324年前-「元禄絵図」に三本木村が画かれている。(下記写真③)
1695(〃8)319年前-領内大凶作(南部領4大飢饉のひとつ)餓死者約5万人。
1699(〃12)314年前-三本木村の年貢38石4斗6升5合畑含む。
1722(享保7)291年前-7月10日作助弟、7月21日作助妻、10月2日作助嫁、11月3日作助、11月5日作助子の家族が死亡。伝染病か?
1743(寛保3)270年前-11月21日「三本木御見分假小高帖」51石6斗1升5合34軒(本村、24軒・中掫6軒・川代3軒)
1751(宝暦元)262年前-6月20日稲荷様御神体(石像)弥兵次建立(現桜田繁家の先祖)
1755(〃5)258年前-大飢饉(南部領4大飢饉のひとつ)49,594人餓死。
1758(〃8)254年前-9月「赤沼神社霞証文」に三本木村が支配されている。
1776(安永5)237年前-「郡内郷村志」三本木村54軒(本村40軒・中掫5軒・川代7軒)(51石6斗余・馬81疋)
1783(天明3)230年前-橘南谿(医師・旅行家)通行の時、飢餓で餓死者を食う話を聞く。南部領餓死7万5千人余。
1784(〃4)229年前-大飢饉、南部領餓死4万850人。病死2万4000人余。合わせて6万4850人余。
1803(享和3)210年前-大飢饉後「御領内郷村名帖」三本木村52軒から26軒になる。半分の家がなくなる。本村40軒から15軒・中掫5軒から6軒・川代7軒から5軒。
1819(文政2)194年前-「田畑仕付見分帳」三本木村49石3斗1升2合の年貢(桜田弥重治家文書)
1827(〃10)186年前-9月「田畑仕付不仕付見分調帖」
1832(天保3-8)181年前-この年より天保9年まで連続7年間大凶作
1837(〃8)176年前-「領分中一村限御給所」三本木村51石6斗1升1合、給地14石7斗3升1合、計66石余。
1859(安政6)154年前-新渡戸伝三本木平に上水(稲生川)
1865(慶応元)147年前-「赤沼新山神社霞文書」三本木村63軒(本村34軒・中掫10軒・矢神19軒)
1868(明治元)145年前-明治維新。
※不作…4分の1減、凶作2分の1減、大凶作…4分の3減、飢餓は上記以上。西暦1615年(元和元)年~幕末まで250余年間に、不作以上が78回あり、ほぼ3年に1回の割合であった。
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①「南部領内総絵図」正保4年(1647)南部藩領内最古(現在)。初めて三本木村とでてくる(盛岡中央公民館所蔵)
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②「寛文三本木村絵図」寛文5年(1655)三本木村(元町)(桜田柳一所蔵)
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③「元禄絵図」元禄2年(1689)三本木村に植立木が1列に(小笠原敏行所蔵)
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これだけ詳しい案内板があれば本当に助かります。
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狛犬一対(台座紀年銘:昭和61年9月1日)。
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いちょう1本(十和田市保存樹木・指定5号・昭和51年)。
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『胸高周囲5.1m。樹高25m。指定樹齢212年。天明時代元村は51軒の集落であったが天明飢饉により餓死者が続出し、23軒に減少したと言われている。この当時三本木昨助が餓死者の冥福を祈り、屋敷の片すみに植樹したと伝えられている。』
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三社託宣の碑(昭和43年9月建立)。
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庚申塔と手水鉢らしき石。
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