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奥州街道沿い。
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奥州街道駅路図(狩場沢~土屋)…『文禄4年(1595)「津軽と南部の境は狩場沢をもってする」旨の仕置きが、太閤秀吉により為された。現存する四ツ森塚の中間を流れる二本股川(通称・双股川)がその境とされ、400有余年を経た現在でも、平内町と野辺地町の境界となっている。明暦2年(1656)黒石津軽家初代信英公は、黒石・平内及び上野国大舘(群馬県)を合わせた5千石を本家弘前津軽家より分知された。以来、平内は黒石津軽家の飛地(領地1千石)として、安永4年(1775)代官所が置かれ、明治維新まで永きにわたり統治された。江戸時代後期の紀行家として有名な菅江真澄の遊覧記には、寛政・天明期の平内が活き活きと著されている。平内郷は、奥州街道によって南北に分けられ、南は農村部、北は夏泊半島をかかえた漁村部となっており、豊かな自然に順応した祖先の営みが伺える。往時の1日の歩行距離は、成年男子で10里(1里は約4km)から12里、婦女子で8里から10里であったと云われている。このため、青森と野辺地の中間にある平内は、旅人にとって一服する地点であったようで、旅籠と称するところは、小湊に1軒あるだけだと記されている。上記の街道路(鳥瞰図)は、寛政期に村上嶋之允(秦憶丸)の描いた「第日本國東山道陸奥州驛路図(※註1)」の一部であり、その中から小湊村を中心にした部分を主に取り上げた。※註1当該鳥瞰図は、青森県立図書館所蔵のものを同館の許可を得て複写したものである。※註2太枠線で囲まれた横書きの地名は、註1の図に現在の地区名を新たに加えたものである。平内町教育委員会※註3鳥瞰図に表示した「現在地」は、地勢からの推定位置である。』
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平内は蝦夷語の「ピラナイ」が語源とされています。「ピラ」は山と山の間、「ナイ」は河川という意味で、山と山の間の川が流れる土地という語義があります。鎌倉から南北朝の末までは南部領糠部郡に属していましたが永享年間に津軽田舎郡の所領となります。元亀・天正の頃には、七戸隼人が現在の福館に城を築いて平内郷一帯を支配。その後津軽為信公が外ヶ浜討平の際、軍門に降り津軽領になります。明暦2年(1656)に津軽十郎衛門信英が平内郷を賜り黒石領になった際、小湊に役所を開き、東は狩場沢、西は土屋に関所を設けました。口留番所は国道4号から熊野宮へ通じる道路分岐点付近で、建物は丘の上にあったと言われていますが、現在は畑地などとして利用され、その面影はないそうです。
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小祠と社号標。
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自主神社とありますが地主神社かな…。紀年銘は平成10年4月20日。
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菅江真澄が狩場沢を訪れた際に菅大神の小さな祠内に陰陽石・雷斧石、雷槌石(石器)などという変わった形の石が納めてあったと『津軽の奥』記しています。この菅大神は所謂天満宮のことであり、この碑はその天満宮に関連するものと考えていましたが、菅江真澄が記している感じとは違いますね。
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祠内は菅原道真公がおりました。
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