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奥州街道。
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平内町と野辺地町の中間にある県史跡津軽南部藩境塚標柱。
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その横には菅江真澄句碑(平成4年3月平内町商工会建立)…「あら波のよるきしこほれさしながらにでらで花のかけやうつさん」
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平内は蝦夷語の「ピラナイ」が語源とされています。「ピラ」は山と山の間、「ナイ」は河川という意味で、山と山の間の川が流れる土地という語義があります。鎌倉から南北朝の末までは南部領糠部郡に属していましたが永享年間に津軽田舎郡の所領となります。元亀・天正の頃には、七戸隼人が現在の福館に城を築いて平内郷一帯を支配。その後津軽為信公が外ヶ浜討平の際、軍門に降り津軽領になります。明暦2年津軽十郎左衛門信英が平内郷を賜り黒石領となった際に各村に庄屋を置き、この上に大庄屋を置いて村内を監督させるとともに小湊に役所を開いて代官2人をおいて一帯を治めました。東は狩場沢、西は土屋に関所がありましたが、津軽・南部両藩の境界について確執が絶えなかったそうです。そこで両藩協議の末、上馬門・狩場沢の中間の小川を挟んで東西に相対峙する小丘を各々2個築いて境界標としました。これが通称「四ツ森」と呼ばれる藩境塚で、現在も町界、郡界の基点として重要な意義を持っています。明治4年の廃藩置県で、青森県第一大区、七小区に編入され、平内村の呼称で小湊に戸長役場が置かれました。明治22年町村制が布かれて東平内、中平内、西平内の3村に分かれましたが、昭和3年に中平内は小湊町として町制を布きました。昭和30年3月31日、町村合併促進法に基づいて3町村が合併、町名を歴史的にも意義深い平内町として現在に至っています。
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双股川を挟んでいるこの土盛りの塚(各2基)と烏帽子岳山頂を結ぶ線が両藩の境界になります。
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天明8年に訪れた古川古松軒(享保11年-文化4年)は『東遊雑記』で以下のように記しています…『馬門と野辺地の間に津軽と南部の界ありて、双方の番所あり。刈和野・馬門は漁家のみにして見苦しき小さき町なり。この辺には帆立貝の名産あり、その大いなるは水の五、六合も稀には一升も入るあり、小さき貝は浜辺にあまたありしことなり』
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塚の直径はおよそ10m、高さ3.5mほどです。
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築造年代は不明ですが、正保2年(1645)の津軽領国絵図には既に記されております。
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従是西北津軽本次郎領分。
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従是東南盛岡領。
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中間。
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盛岡領側(野辺地)から見た四ツ森。
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海沿い眺望。
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案内板より…『県指定史跡藩境塚(通称・四ツ森)。昭和44年12月15日指定。所在地:東津軽郡平内町大字狩場沢字関口(2基)、上北郡野辺地町字柴崎(2基)。高さ:3.5米、直径:底面にて約10米。この塚は江戸時代、津軽藩と南部藩の境界に築かれたものである。津軽領と南部領を結ぶ主要街道上にあり、二本又川(境の川)をはさんでそれぞれ2基ずつ4基とした。築造年代は明らかでない。平内町・野辺地町』
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馬門御番所。非常に厳重な取締りが行われたという口留番所は国道4号から熊野宮へ通じる道路分岐点付近で、建物は丘の上にあったと言われていますが、現在は畑地などとして利用され、その面影はないそうです。文化年間には異国船の渡来に備えて相当量の武器や弾薬が備えられています。
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建物内は何と…公衆トイレでした(笑)
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馬門番所の高札…『一.武具類くろがね類 一.紅花紫根黄連 一.蝋漆油 一.錦麻からむし并布 一.箔椀同木地 一.銅鉛硫黄塩硝皮之類 一.男女并牛馬。右之通無手形他領へ出候事 堅ク被停止畢若脇道通者 於有之八可捕上 為御褒美其持料可被下候者也 宝暦六年 織笠弾正 桂和泉 東中務 北民部』
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