イメージ 2
鳥居(昭和55年12月吉日)。
イメージ 1
少し前までは鎮守の杜に囲まれた社だったのでしょう。
イメージ 3
社殿周囲には伐採された木がそのまま残っていました。
イメージ 4
狛犬一対(台座紀年銘:平成9年8月30日)。
イメージ 5
イメージ 6
御祭神は倉稲魂命。戦後の入植者によって祀られ、崇敬されてきた社であると思われます。
イメージ 7
イメージ 8
向拝扁額。
イメージ 9
虹梁・蟇股・木鼻。
イメージ 10
イメージ 11
イメージ 12
イメージ 13
35周年記念開拓碑…『終戦によって昭和20年11月19日時の内閣は海外引揚者戦災者復員軍人等の人口収容と食糧確保を目的にいわゆる緊急開拓事業として閣議決定したという。この事業決定によってわれわれ旧藤坂村の海外引揚者復員軍人地元農家の次三男32名は昭和21年4月1日選ばれて元軍馬用地であった現在地に入植し部落名を藤髙と名付けた。われわれは若くして身心気鋭の者であったが入植当初は慣れない開墾作業に心身共に極り粗衣粗食歯をくいしばって艱難辛苦に堪へ一致協力和を旨とし開墾作業に鍬をふるった。しかしながら入植当時の作付は畑作の雑穀のみで収入は少く苦難な年月を送らざるを得なかったが昭和28年三本木国営事業所により一本木沢下平に国営事業所初のポンプ揚水機による開田事業が実施され稲生川よりの揚水を見われわれもその恩恵を受けるに至った。その後同29年第二次開田同35年マギ山開田同42年南藤髙共同施行同43年北藤髙共同施行等数次にわたる開田を実施し今や一戸当り二町歩近くの水田を所有するに至った。またそれ以前の昭和22年共同事業による住宅の完成同23年電気工事の完成等により同40年簡易水道同49年市の水道の導水を見るに至れり。かくして生活文化共に近代農村の基盤もようやくにして成るに至ったのである。かくの如くにして今日の隆盛を見るに至ったのはわれわれの和と団結を旨とした血と汗の結昌もさることながら親兄弟親戚の援助と十和田市は勿論青森県国営事業所始め数多くの関係各方面からの絶大なるご指導ご援助のたまものでありこの機会に改めて感謝申しあげると同時に今日この記念すべき日を待たずして幽明さかいを異にされた今は亡き人々の御冥福をお祈り申し上くるものでございます。今やわが藤髙地区も十和田バイパスの開通に着手されようとしており十和田市の重要地帯として市街地化の方向に進められておりますがわれわれのこの労苦を思い子に孫に永劫に藤髙の名を髙からしめますます繁栄されんことを念願し碑文とす。昭和55年12月21日藤髙開拓35周年記念実行委員』
イメージ 14
イメージ 3
イメージ 2