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参道。


富士塚。


ぶじかえる。

浅間神社。

狛犬一対。


品川神社正面参道。

参道狛犬。




神楽殿。

社殿。

板垣退助のお墓の場所は品川神社本殿裏。

元は東海寺の塔頭(本山の内にある末寺)の一つの高源院という寺院があった所。板垣退助は生前に、自分の死後はここに墓を建てるように希望したとのことで、その意向通りにこの場所へ埋葬されてお墓が建てられました。

関東大震災後、高源院は世田谷の烏山に移転し、その跡地は城南中学校になりましたが、お墓だけは彼の意思を尊重した為か、そのままこの場所に残りました。品川神社の境内地ではありませんが、便宜上一部を開けてお参りが出来るようになっています。

句碑(達筆にて読めず)。


青木瀧子墓(四男正實乳母)。

乾庄右衛門信武墓(板垣退助の祖父)。

板垣武生墓(板垣退助の孫・板垣鉾太郎長男)。

板垣清子墓(板垣退助の権妻)。

板垣六一墓(板垣退助の五男)。

板垣正實墓(板垣退助の四男)。

板垣絹子墓(慈徳院殿温良全貞大姉・板垣退助の4番目の正妻)。

板垣退助墓(邦光院殿賢徳道圓大居士)。

「板垣死すとも自由は死せず」佐藤栄作書(自由民主党総裁)。

手水鉢(小川一眞奉納)。

板垣退助墓(品川区指定史跡・昭和53年11月22日)…『板垣退助は、天保8年(1837)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、討幕運動や戊辰戦争(1868)に参加して功績をあげた。明治7年(1874)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治14年(1881)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧かせた。明治29年(1896)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治33年(1900)に政界を引退した。大正8年(1919)に亡くなり、この地に葬られた。平成7年3月31日』

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