
金鶏山橋を渡ります。


観音堂入口前には「伴治」と掲げられたやや趣のある建物と見町農村公園があります。


見町農村公園前の絵馬の里の碑の裏面には、『正面の絵馬は、見町観音堂に奉納された「南部小絵馬」を表現したものです。本地域には青森県有形文化財指定の見町観音堂があり、堂内に奉納されていた南部小絵馬や羽子板は庶民信仰資料として平成2年に国の重要有形民俗文化財に指定されました。近年、観音堂を訪れる多くの方々や地域住民の憩いの場また交流の場となるような公園整備の要望が高まり、青森県営七戸南部地区中山間地域総合整備事業により見町農村公園として整備したものです。平成14年3月』とありました。

見町観音堂(案内板より)…『見町観音堂は、南北朝時代の南朝方最期の忠臣、南部政光によって、長慶天皇の菩提を弔うために創建されたと伝えられます。現在の建物は、延宝4年(1676)に建てられたもので、室町時代の建築様式を今に伝える県内では数少ない貴重な建物で、昭和60年に青森県有形文化財の指定を受けました。堂内には、絵馬や羽子板など359点が残されており、これらは平成2年、国の重要有形民俗文化財に指定されています。』

鳥居。

見町観音堂は正しくは金鶏山長福寺と称し観光上人や遊行上人が巡礼で訪れた由緒ある寺院であり、かつては奥州糠部三十三観音霊場第13番札所にも選定されていました。岩手県の金鶏山に関連するのかな。余談になりますが、中世の平山城である野辺地城(野辺地館)の別称は金鶏城といいます。『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』には「城内に金の鶏を埋めて城の守りにしたからだという。城の左右に、雄鶏・雌鶏というトリデもあった。正月には、城跡のあたりで、地底から鶏の声を聞くことがあるといわれた」とあります。いずれにせよ盛岡藩領らしい名前ですね。なお、山号額には書で有名な昆山和尚(瑞龍寺)の名が見えます。確かに瑞龍寺山門の字体に似ています。

参道。規則的な石段から始まり…

平坦な山道となり…

苔生した凸凹敷石となり…

不規則な石段からの…

近代的な敷石が僅かにあって…

また普通の山道に戻り…

ってことで到着です。

何本かの巨木が出迎えてくれました。




見町観音堂庶民信仰資料(案内板より)…『見町観音堂は、波木井南部八世政光が、応永3年(1396)長慶天皇の菩提を弔うために創建したと伝えられる。この神社は昔から見町の観音様として知られているが、正しくは金鶏山長福寺と呼ばれ、本尊は聖観音である。長福寺は、奥州糠部三十三所順礼の札所にあたり、観光上人、遊行上人の順礼札が残されており、七戸地方における観音信仰の拠点として長く崇敬されてきた。波木井南部は四世師行以来60年にわたる南北朝時代、南朝方の北方における中心勢力となり、政長、信政、信光、政光と5代にわたって南朝に忠誠を尽くし、後世「南朝五世の勤皇」と賞賛された家柄である。政光は、足利方の執拗な降伏勧告に応ぜず、甲斐(山梨県)の領地をことごとく足利に納め、自らは後醍醐天皇から拝領した八戸根城に移ったが、後にそれを兄の子に譲って七戸に退き、応永26年(1419)83才で没した。現在の堂は江戸時代中期頃の建造と思われるが、室町期の建築様式を今に伝え、昭和60年に青森県重宝に指定されている。桁行、梁間ともに三間の単層、方形造りの建物で、屋根は昭和39年に萱葺きからトタン葺きに改修し、また昭和59年には原型の保存復元を原則に下部、廻縁の全面改修が行われた。堂内には、小田子不動堂と同じく江戸時代中期以降の絵馬185枚、室町期をはじめとする羽子板14枚、読経札113枚、称名念仏札2枚、納経札2枚、観光上人、遊行上人をはじめとする順礼札8枚、応永3年をはじめとする棟札13枚、その他合わせて359点の信仰資料が残されている。これらは見町観音堂をめぐる創建当初から江戸時代末までの庶民信仰の実態と推移を理解する上で貴重であるばかりでなく、絵馬や羽子板を奉納する慣習についての地域的特色のある信仰用具の集成としても重要であるとして、平成2年3月29日、国の重要有形民俗文化財に指定された。』

七戸町史によりますと、応永3年(1396)南朝最後の忠臣南部政光が、長慶天皇の菩提を弔うために建立したと伝えますが、後世左甚五郎が一夜にして造った神社という伝説も生まれています。それによりますと甚五郎は千曳神社と花松神社もその時に造ったといいます。昭和9年12月27日、七戸史蹟調査会から、時の宮内大臣湯浅倉平に提出した長慶天皇御陵墓御事蹟御調査方請願書は、通称見町観音堂と呼ぶこの住吉神社を金鶏山住吉御陵墓と拝察したことに基くもの。またおぼっこ田の伝説もあります。見町観音堂の別当の家前におぼっこ田と呼ばれる田があるそうです。詳細については七戸町史、もしくは盛田稔「南部小絵馬」をご覧ください。

『新撰陸奥国誌』に「住吉神 祭神 表筒男命 旧支村見町に鎮座ありしが、勧訪の年月を伝ヘず、この社は見町にありしとき観音を併せ祭り、修験長福寺が司る所なり。長福寺后復飾し金見司と称し、帰農して観音の像は司か私宅に移すと云。旧来社内に棟札あり。其文左の如し」といって、それを紹介していますが、このことについては『七戸郷土誌』草稿並びに『郷土誌』に「住吉神社 字見町ニ鎮座ス、祭神表筒男命、本地堂ノ棟札アリ」といってそれを示しています。更に「南部延光(又信光ニ作ル※研究家は政光としている)幼名力寿丸、政長の子信政早死ヲ以、正平五年八月、祖政長ノ後ヲ襲ヒ大炊助又薩摩守ニ任セラル。(中略)信光祖師行鎮守府将軍源顕家郷ニ従ヒ、和泉ノ阿倍野ニ戦死ス、住吉ノ神霊ヲ此処ニ観請セシニアラザルカ、今伝ヲ喪フ」と記しており、「旧藩時代ハ亦藩主ノ祈祷所デ社領五石寄進セラレテアッタ」と述べています。この神社については、飛騨の匠が、一夜のうちに作田の新山神社と、当社と、沼崎の観音堂を建てようとしましたが、沼崎の観音堂の屋根を片方葺いた時点で夜が明けたため、観音堂は今に至るも屋根の片方が空を見ているという口碑と、また同社に奉納されている狩野法限の画いたという馬が、額から抜け出て神田の稲を食っていたという話が伝えられています。社殿は三間四面の方形茅葺の屋根でしたが現在は昭和45年トタン葺に改められ、垂木の先端は反っています。柱は総円柱で気品をそなえ、廻廊は外方に向ってやや斜に下っています。この神社は昔から見町の観音様として知られていますが、正しくは金鶏山長福寺と呼ばれ戸来の『多門院文書』にも「一.七戸町見町観音堂 応永三年三月 政光公御建立。一.御再興 慶長十八年二月 七戸直勝公。一.御葺替 万治三年黄鐙 重直公御代。一.御修覆 延宝四年九月 重信公御代。一.御再興 宝永二年黄鐘 行信公御代。其後当時迄御葺替計ニテ相済居候得共 御堂朽損等無御座候 右之通御座候 此度御尋ニ付書上申候 以上 申七月 多門院御房 観音別当 日光院印」と見えていますが、御本尊は聖観音でした。応永3年(1396)の棟札をはじめ、万治3年(1660)、延宝4年(1676)の棟札のほか、永正9年(1512)の観光上人の順札をはじめ、貞享4年(1687)、正徳3年(1713)、延享元年(1744)、寛政4年(1792)の遊行上人順札等が納められています。長福寺は観光上人奥州糠部郡三十三所巡礼の13番札所にあたり、「よもすがら佛のみ名をとなふれば極楽ともにここをみるまち」の歌を残しています。この歌は『南部三十三所観音霊場御詠歌』には「二番七戸見る町」として載せられています。また「三番見町」となっているものもあります。なお寛延4年(1751)の『多門院文書』によりますと、当観音堂の霞は、「見町村・中村・荒屋村・野佐懸村・寺下村・八粟平村・道地村・別曽村・川去り村」の9村となっていましたが、天保8年(1837)の証文によりますと、「和田・西野・沼ノ沢」が増えて12村となっており、社領5石でした。(七戸町史・住吉神社の項を参照)

向拝。

屋根に木が生えています。

石灯籠一対(御宝前・干時文政11年7月)。



狛犬一対(安政7年正月吉日)。



手水石。

その隣の石碑は何か彫られていますが、倒れていてよくわかりませんでした。

末社。

四阿も趣がありました。

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