森山は津軽カントリークラブの横にある小さな山です。小森山(標高325m)と森山(標高403m)がありますが森山の方。
ミズナラ、イタヤカエデなどを主とした夏緑広葉樹林となっており、また、カタクリ、シュンラン、ホタルカズラなどの群落があります。特にカタクリの花を見に来る方は多いようです。
林道を歩いて行きます。昔は聖なる地である岩木山への入山は大変厳しいものでした。その代わりにこの森山を小さな岩木山に見立てて登ったそうです。※岩木山登山禁制…女性は登山禁制で明治維新後に許されましたが、一般に登るようになったのは太平洋戦争が始まり、女性が男性の代参をする風習が生じてからだと云います。また、菅江真澄の『津軽の奥』では「武士であるものが登山するのを禁ずる藩法があって、これを犯す者はないという。」とあります。武士が登ることを禁じた理由は不明ですが、衆民の風俗と区別するためであったと推測されます。
森山中腹にはかつて守山神社があり、そこに参拝していたようです。現在は誰でも岩木山登山ができるようになったので、この森山を訪れる人はほとんどいなくなりました。後にスキー場としても利用されていたようですが、その痕跡は見当たりません。菅江真澄の『津軽の奥』には次のような記載があります。『岩木山の外山の姿は、ちょうど小倉山(京都)をみるのと同じようであったが、それを守山といって、守山明神という社があり、その神に仕えている山田左衛門太郎伴定の子孫がいた。』
林道なので道は綺麗に整備されており、軽装でも大丈夫な感じです。
但し、森山付近は熊が多いらしいので、できれば複数で行きたいところです。
残念ながら今日は岩木山見えません。よって山頂までは行きません。頂上の眺望がどのような感じかはわかりませんが。とりあえず中腹にある守山神社跡が今回の目的。
って言ってはみたものの、いきなり脇道を発見。ちょっと荒れてたし、熊が怖いのでこの道はパス。
で、お次は三叉路。「どちらにしようかな、天の神様のいうとおり、へのへのもへじの柿の種、決ーまった!」。余談ですが、この選び歌と言われるものは地域性に限らず無数の歌詞が存在しているそうです。あなたの選び歌の歌詞はどんな感じ?(笑)
話が逸れましたが右側に行ってみます。
しばらく歩いてみましたが、どうやらこちらは山頂へのルートのようです。
あぁ~神様~!
ってことで先程の分岐まで引き返して左の道へ。
少し歩いて…えっ!?行き止まり!!神様っ!!
小さな木が1本あるだけですが、どことなく違和感のある空間です。
周囲をよくみると不自然な石板がありました。特に文字などは見られません。
まるで礎石のようなこの石板は、よく見ると対になっており、かつてはここに何かがあったように思えます。
うん?横の森に道らしきものを発見。行ってみます。
15m程進むと…
小祠発見!!
間違いなくここが守山神社の跡地です。神様ありがとう。
守山神社。寛治5年という昔から、多くの方々がここに参拝していたと思うと感慨深いものがあります。
岩木山神社参道に「奉崇守山三柱大神之碑」があります。それによりますと寛治5年(1091)の草創。弘前藩主崇敬の社となりて社領及社殿の建物等藩費をもって賄われました。明治6年に神社改正により岩木山神社に合祀。守山神社を管理する山田家では、毎年6月12日に岩木山神社で行われる守山祭の際に、森山に向かって遥拝されているそうです。
空っぽの祠かと思っていたのですが、きちんと山神の神像が祀られていました。守山三柱大神とは大山祇神・久久野智神・草野姫神だったんですね。久久能智神は古事記の神産みで伊邪那岐命と伊邪那岐命の間に産まれ、その次に大山津見神、神鹿屋野比売神が産まれています。久久能智神は木の神、大山津見神は山の神、神鹿屋野比売神は野の神です。木・山・野を大切にしましょうね!ちなみに大山津見神と神鹿屋野比売神の間に4対8柱の神が産まれています。
小祠の裏には大きな石碑があります。この石碑を読みたかったのです。読める状態で良かった。
中央に「奉崇守山大神」とあります。右に「寛治五年草創」、左に紀年銘「明治24年舊6月12日祭行」、「催主山田稲城」とあります。
裏側は特に何も彫られていません。
小祠は木々に囲まれており、特に景色は見えません。
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