

参道にはたくさんの石灯篭があります。その中で一際大きい石灯篭一対。

狛犬(和犬系)一対。


文久2年正月。



男坂。



男坂向かって左にいる狛犬。

男坂下の酉(鶏とヒヨコ)。

石蛙。

男坂下の松(鷹居の松の何代か後のもの)。

鷹居の松跡…『江戸幕府3代将軍徳川家光が寛永(1624-1644)の頃、目黒不動尊の近くで狩猟中に愛鷹が行方不明になりました。家光が目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまち境内の大きな松の枝に飛び戻ってきました。このことに家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と命名したといわれています。これ以後、家光は不動尊を深く信仰するようになり、火災によって焼失していた目黒不動尊の堂塔を次々と再建させ、寛永11年(1634)には諸堂末寺等を併せて50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。幕府の保護を受けて以来、歴代将軍が目黒不動尊へ参詣するようになると江戸庶民にも不動信仰が広がり、目黒不動尊は江戸近郊の有名な行楽地の一つとなり大変にぎわいました。尚、現在の松は「鷹居の松」の話から何代か後のものになります。平成21年3月目黒区教育委員会』

女坂。

女坂下にある鯱手水舎(※この湧水は飲料不適です)。

銅造役行者倚像(神変大菩薩)。

女坂にあります。


銅造役行者倚像(区指定文化財・昭和59年3月31日指定)…『役の行者(役小角ともいう)は奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖として崇拝されている人物です。この像は寛政8年(1796)の作で、総高142.2cm、坐高92.7cmです。やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもとても巧みで江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品の一つです。表面は黒光りしており、これは鋳工の間でカラス銅と称される銅色です。頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖を、左手には巻子を持っています。また、像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や、神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることがわかります。平成21年3月目黒区教育委員会』

宝剣塔(不動剣・城南講)。

緑色の狛犬一対。


目黒不動尊100回参拝記念碑(城南講)。

力石。

男坂上の百度石。

大本堂前(男坂上)の狛犬一対。都内最古の狛犬。


前回の記事で書いた独鈷の滝付近に安置されている狛犬と酷似するものです。


胸部には「奉献 不動尊霊前 唐獅子二匹」、右前足に「亀岡久兵衛正俊」左前足に「承應三甲午三月廿二日」と彫られています。


手水舎。

青銅灯篭(第一區筒先)。

火消の纏付。


大本堂前石灯篭一対(寶暦3年正月吉祥日)。

大本堂。

入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂。昭和56年再建の鉄筋コンクリート造建築。

傾斜地に建っているため、室生寺金堂や石山寺本堂のような懸造風の造りになっています。


天井には日本画家、川端龍子の「波涛龍図」が描かれています。

瀧泉寺は関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動の一つに上げられます。江戸三大不動・江戸五色不動・関東三十六不動霊場札所・江戸三十三観音霊場結願札所・山手七福神札所。御本尊は目黒不動明王(秘仏)。御本尊は12年に1度(酉年)御開帳。

大同3年(西暦808)円仁(後の天台座主第三祖)が師の広智阿闍梨に伴われ、下野国から比叡山に赴く途中に目黒に立ち寄り、その夜の夢中にて、面色青黒く、右手に降魔の剣を提げ、左手に縛の縄を持ち、とても恐ろしい形相をした神人が枕の上に立ち現れ、「我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思うなり。来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん」と告げ、夢覚めた後その尊容を黙想し、自ら彫刻した不動明王を安置して創建。貞観2年(860)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、山号を泰叡山としました。元和元年(1615)本堂が火災で焼失。寛永7年(1630)寛永寺の子院護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子である生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受け、寛永11年(1634)50棟余におよぶ伽藍が復興し、目黒御殿と称されるほど華麗を極めました。文化9年(1812)には江戸の三富と呼ばれた富くじが行われました。富くじ興行は天保13年(1842)の天保の改革により中止。

江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、江戸名所図会にも描かれています。門前町の名物として、当時目黒の名産品であった竹の子(江戸後期に薩摩藩より移植したものが商品作物として普及)を使った竹の子飯と棒状に伸ばした練飴(白玉飴)を包丁でトントン切っていく目黒飴が人気でした。また、餅花という細い竹にしんこ餅を付けた物や粟餅などもあったといいます。ちなみに落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台だとされています。明治時代になると西郷隆盛や東郷元帥等が篤い信仰を寄せられて祈願に訪れています。

大本堂の裏へ。

大日如来(不動明王の本地仏)。



胎蔵界大日如来光背覆屋二十八宿図荘厳…『平成22年の大日如来像保存修復に続き、翌年には覆屋を復興し、光背を新設いたしました。雨水や落葉等から如来像を守る覆屋は、四方から礼拝できる開放的な建物です。屋根はアルミ鋳物を採用して軽量化の上、Vプロセス鋳造法により自然な曲面を持たせ、内側の梁には旋盤削出し銅材溶着、金色塗装にて描写した、二十八宿図が輝きます。光背はアルミ鋳物に金箔を押し、背後から光を取入れ、大いなる日輪を表現しました(清水建設株式会社)。大宇宙のほとけである大日如来の頭上に描かれた「二十八宿図」は、太陽・月・星の位置と動きを表し、生活の上では天文学、暦、占星術に古来より密接に関係します。西洋の星座(黄道十二星座)は、太陽の通り道(黄道)を十二箇月かけて通ります。それに対して「二十八宿」は、月の通り道(白道)に二十八の星座を作り、月が一日に一つ、この星の宿、星宿を訪ねて天空を旅します。また四方は七宿ごとにまとめられ、東方青龍、北方玄武、西方白虎、南方朱雀の四神に見たてられました。平成23年3月瀧泉寺』

銅造大日如来坐像(区指定文化財・昭和59年3月31日指定)…『蓮華座に結跏趺坐しているこの坐像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られています。総高385cm、座高281.5cm、頭長は121cmで、体躯にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躯も衣文表現もよく整っています。現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の「目黒不動堂」の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧侶の歴名が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名が見えることから、大衆による造像だったことがうかがえます。また、刻銘から制作年の天和3年(1683)と、制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。平成21年3月目黒区教育委員会』

大日如来遷座供養碑。

持国天(東方の守護神)。

多聞天(北方の守護神)。

廣目天(西方の守護神)。

増長天(南方の守護神)。

地主神。

大本堂前の鐘楼堂(鐘楼・梵鐘は昭和40年製)。朝6時、夕6時に時を告げます(大晦日は一般開放されます)。

八大童子の山。不動明王、矜羯羅童子、制多迦童子、淸淨童子、慧光童子、制多迦童子、阿耨逹多童子、慧光童子、慧喜童子、阿耨達童子、指徳童子、烏倶婆伽童子、清浄比丘。

八大童子の山前の狛犬一対と石灯篭。


子守延命地蔵尊。

本海・山海・暁海の木食三上人が願主となって鋳造。

虚空蔵菩薩。智慧の佛。


護衛不動尊。

厄難消除・方災消除。

石灯篭。


微笑観世音菩薩。

狛犬一対。一対ですが、1基は新しいもので、もう1基は天保11年。


不動明王(天下泰平・日月清明、綿職講中)。

意思不動尊。

不動三尊です。両脇に馬頭観音と太郎坊・次郎坊(八天狗)石塔もあります。

愛染明王。良縁成就。

愛染明王の台座前で絵馬を両手にはさみ胸元で合掌し、男反時計回り、女は時計回りに心鎮めて回り、愛染明王前に戻ったら一礼して絵馬掛けに絵馬を奉納します。

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