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鈴懸の木(プラタナス)。
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宝篋印塔。
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御神木と馬頭観世音(大正9年)。
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薬師如来坐像。
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これ系は読めません(笑)
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三界萬霊塔。欲界・色界・無色界の精霊を供養します。
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北向六地蔵。地蔵菩薩の浄土「伽羅陀山」は南方にあり、南を向いて地蔵菩薩を祈れば、直ちに浄土を発し我々のいる北に向かって救いに来てくださるので北を向いています。
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北一輝先生碑・千家華塚。北一輝先生碑…『歴史は北一輝君を革命家として傳へるてあらう然し革命とは順逆不二の法門その理論は不立文字なりとせる北君は決して世の常の革命家てはない君の後半生二十有餘年は法華経誦持の宗教生活てあつたすてに幼少より煥發せる豊麗多彩なる諸の才能を深く内に封して唯た大音聲の讀經によつて一心不乱に慈悲折伏の本願成就を念し専ら其門を叩く一個半個の説得に心を籠めた北君は尋常人間界の縄墨を超越して佛魔一如の世界を融通無礙に往來して居たのてその文章も説話も総て精神全體の渾然たる表現てあつたそれ故に之を聴く者は魂の全體を擧けて共鳴したかくして北君は生前も死後も一貫して正に不朽てあらう昭和33年8月大川周明撰 玄林武田梅書』
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北一輝先生…『この碑は北一輝先生の顕彰碑で大川周明氏の文によるものです。先生は明治16年、佐渡ヶ島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代中国に渡り、中国革命を援助し又日本改造論を叫び、国家主義の頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟し多くの信奉者を得た。時適々満州事変前後より先生の思想はファシスト化し、遂に2・26事件を惹起する要因になった。勿論直接行動には参加しなかったが、首謀者として昭和12年銃殺刑に処せられた。然し先生の生涯をさゝえたものは奇くも法華経の信仰であったことは有名である。毎年8月19日の祥月命日には今も尚全国の有志が追悼法要を厳修している。当山』
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目黒不動尊の西側には三折坂があります。
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がっつり工事中だったので上るのはやめました。
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三折坂…『三つに折れ曲った形状から三折坂とよばれるようになった。また、目黒不動への参詣者が、この坂を降りていくので、「御降坂」とよんだともいわれる。』
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腰立不動(山不動)。
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立身出世のお不動様。
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腰立不動由来…『山不動。妙なる力におこされて 二度世に立不動尊 かめの祝の末広く 朝日ののぼるみごとさで 東都のつどい善男女 すくいとらすぞ妙なる力 昭和32年12月15日』
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本居長世の碑(十五夜お月さん楽譜)。
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『童謡は第一流の詩人が子供のために詩を書き第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本の児童文化財です。本居長世は音楽学校で中山晋平、弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送りました。ことに大正9年、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられました。本居はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜この寺の境内を散歩しながら想を練ったことでしょう。今ここに氏の曲の碑を建てて、氏の功績を記念したいと思います。本居長世を慕う会 童謡の里めぐろ保存会』
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宝篋印塔。
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勢至堂。
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宝形造の小堂。江戸時代中期の建築で、目黒区の有形文化財に指定。
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手水石。
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瀧泉寺勢至堂(区指定文化財・昭和59年3月31日指定・下目黒3-20-26)…『龍泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の龍泉寺の面影を残しています。向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立からそれほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが、昭和44年に行われた前不動堂の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、龍泉寺境内の優れた景観を形成しています。平成21年3月目黒区教育委員会』
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甘藷講碑と甘昆陽青木先生碑銘。
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『錦■(奚+隹)間祗候正三位勲一等男爵辻新次篆額 我邦洋学之盛実創于昆陽青木先生矣先生学在経済其開洋学植蕃藷皆出於開物成務之意云先生諱敦書字厚甫通称文蔵昆陽其号源姓青木氏其先摂州多田祠官飯倉権守末国後子孫住州之伝法村為農考諱末友称半右衛門移于江戸日本橋小田原街開魚肆称佃屋娶医村上宗伯女以元禄十一年五月十二日誕先生先生幼而好学後往京師受業東涯伊藤先生主躬行実践不屑詞章学成帰江戸下帷八町堀授徒享保十一年十月末友君病歿服喪三年越十五年十月村上氏亦病歿復服喪三年方考妣之在病也先生奉養看護無所不至其居喪自禁酒肉旦夕食粥人皆感其至孝家在町奉行与力加藤枝直邸内枝直視先生篤行具状町奉行大岡忠相忠相問先生所志先是先生以為官宥罪囚竄海島者在今保天寿而島中乏穀往往餓死若植蕃藷則可以救之因求其種子試植之下総馬加村且著蕃藷考示其培法効用至是出其書以呈町奉行供之大将軍之覧乃有命求蕃藷種於薩州植之小石川薬園使先生培養且官梓行其書并種子頒之伊豆七島八丈島佐渡島及諸州我邦殖蕃藷実始于此時享保二十年也忠相知先生可用命為司書吏且請特許覧官庫之書元文四年三月始挙賜俸十人口延享四年七月任評定所儒者賜廩米百五十苞為世禄明和四年二月昇任書物奉行初寛永中幕府厳禁舶齎洋書享保五年解禁当先生閲官庫書見中有和蘭書意謂得読之則必益於世方此時大将軍長天文之学一日覧和蘭天文図精緻曰図既如此其書之精妙可知侍臣啓曰青木文蔵嘗欲学之於是命先生攻和蘭書実寛保元年也和蘭甲必丹毎年従長崎来謁大将軍先生就其寓学延享元年遂往長崎就和蘭人刻苦学修長崎有和蘭象胥亦禁読其書聞先生受特命亦就請先生稟之幕府命許之象胥之得読洋書亦始于此先生東帰之後将大開洋学不幸会大将軍薨忠相亦逝然尚就甲必丹兀兀匪懈著和蘭文字略考和蘭話訳文訳等時有中津藩医前野良沢聞先生通和蘭書来学先生挙其所得悉授之時明和六年也而其十月十二日病歿年七十二有一女養幕府臣川口氏子三郎左衛門為嗣配以女七世孫泰吉今住静岡初元文寛保之間先生奉命巡歴武相甲信豆遠参七州採収民間遺書七十九部献之先生別所著経済纂要官職略記刑法国字訳国家食貨略国家金銀銭譜昆陽漫録草廬雑談等廿五部皆写献之官亦可以見其経済与博識矣先生墓在武州目黒不動堂背後小邱題曰甘藷先生墓都下販甘藷者結社修理数次馬加村民亦祠祀先生嗚呼先生欧学首唱之功終致今日邦家之隆運而其経世済時之効亦可謂■(門+雄の左)且遠矣明治四十年十一月十五日 朝廷褒先生功特贈正四位於是有志者胥謀将建碑於目黒不動堂前嘱銘文彦文彦王父玄沢実承先生学統者因謹録事蹟係銘曰 先生之学 躬践実施 志之所在 経世済時 始植蕃藷 覃施全国 流人不飢 貧民足食 慧眼一瞥 知欧学要 開鑿混沌 ■(足+流の右)通七竅 英俊継起 研鑽拡張 学術治法 煥乎発光 朝命贈位 名溢海宇 創業垂統 沢流千古 明治四十四年十月帝国学士院会員文学博士大槻文彦撰 錦■(奚+隹)間祗候正三位勲一等男爵野邨素介書』
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無事蛙。
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前不動堂へ。
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手水舎。
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狛犬。
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和犬系。
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社号標。
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独鈷の滝の左方にある宝形造朱塗りの小堂。江戸時代中期の建築で、東京都の有形文化財に指定。御本尊の写しを安置しており、将軍や大名などがお参りに来た時にでも庶民が参拝できるようになっています。
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瀧泉寺前不動堂(東京都指定有形文化財・昭和41年3月31日)…『泰叡山滝泉寺は、通称「目黒不動尊」と呼ばれており、大同3年(808)、慈覚大師円仁の創建と伝えられる天台宗の寺院です。境内にある前不動堂は、江戸時代中期の建築になり、「江戸名所図会」にも、現在地付近に「前不動」として図示されています。前不動堂は、滝泉寺本堂手前の男階段左下にある、独鈷の滝の左崖下に建立され、堂内には木造不動明王三尊立像等を安置してあります。江戸時代中期の仏堂建築として、比較的良く往時の姿を保っています。建造物と併せて、扁額「前不動」も附として指定されています。この扁額には「佐玄龍書」の署名があり、堂建立当時のものと推測されています。筆者の佐々木玄龍は、通称万二郎、池庵を号していました。慶安3年(1650)、江戸に生まれ、書風一家をなし、享保7年(1772)に亡くなり、墓標は青山霊園にあります。平成22年3月建設 東京都教育委員会』
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垢離堂。
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青竜大権現を祀ります。
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狛犬。
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独鈷の滝…『このお滝は今を去る1200年程前、当山をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したので之を独鈷の滝と名付けられた。それより今日迄どんなに旱天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。今日都内では大変珍しい名所である。』
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独鈷の滝。
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本堂へと登る石段下の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されています。この寺名の由来となった境内の独鈷の滝を浴びると病気が治癒するとの信仰があります。
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養老孝子像。
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池の向こうの斜面に不動明王や個性的な狛犬など、色々と置かれています。その中に、阿形はきちんと残されていますが、頭部のない吽形の狛犬があります。この頭部は行人坂大円寺にあります。ちなみに男坂上の狛犬と同様に都内最古(承応3年)の狛犬になります。
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手水舎(天明8年・瀑場敷石・永代講中)。
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水かけ不動。
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『當山の開基は天台座主第三祖慈覚大師圓仁で、一千二百有余年前の大同3年(808)大師自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。天安2年、大師が法具 「獨鈷」を投じて堂宇造営の敷地を卜されたところ、泉が忽ち湧出。涸れることのないその瀧泉は「獨鈷の瀧」と称されました。大師はお堂の棟札に、「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と認め「瀧泉寺」と号され、「泰睿」の勅願を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花、夏瀧しぶき、秋紅葉、冬積もる雪と、関東最古の不動霊場は四季折折の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらします。「獨鈷の瀧」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩摩藩主島津斉彬公の當病平癒を祈願されました。「目黒不動尊御詠歌…清らけき 目黒の杜の獨鈷瀧 災厄難を除ける不動尊」。ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され、より清らかな心と身で目黒のお不動さまに参詣できることとなりました。合掌礼拝して「獨鈷の瀧」の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成就のご縁をお結びください。平成8年5月吉日目黒不動尊別當泰叡山瀧泉寺』
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