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慈覚大師円仁は比叡山に登り、学問修行に励まれました。承和5年(832)唐に渡り、同14年帰国されるまで苦学して、唐各地をまわり、たくさんの仏法を伝えて帰国。
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大師は若い時から眼病を患い、40歳の時に自ら薬師様の小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れ、その御持仏を海神に献じて危急を逃れ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。
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その後、諸国巡化のみぎり、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、海神に捧げられた薬師様のお像が蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせび給い、その後東国を巡り天安2年(858)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木に刻み、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえ祀られました。
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タコと成就院…『別名「蛸(多幸)薬師」。創建は慈覚大師。本尊の蓮華座を三匹の蛸が支えている。これは、大師が海に投じた薬師像が蛸に乗り漂着した故事に由来し、蛸薬師の名もここから付いた。』
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成就院(天台宗)…『天安2年(858)慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗る薬師如来像です。俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人々にあがめられています。この寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752-1815)筆の歌舞伎十八番の一の出し物を描いた「矢の根五郎」の額がありますが、国の重要美術品に認定され国立博物館に保管されています。境内には、徳川2代将軍秀忠の側室、お静の方がわが子保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「お静地蔵」が建てられ、また、3代将軍家光が遠州の秋葉大権現を勧請した「秋葉大権現」が併祀されています。この他に江戸時代の地蔵尊や庚申塔が建っています。平成3年3月目黒区教育委員会』
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本堂は昭和31年再建。
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「霊験蛸薬師如来。おなで石、虫封じ、六三よけ。秋葉三尺坊大権現」
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「ありがたや福をすいよせるたこ薬師」。
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お静地蔵尊。
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お静地蔵尊・由来記…『右:准胝観音・聖観音・十一面観音。中:阿弥陀如来。左:金剛願地蔵・金剛幡地蔵・金剛宝地蔵。この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室、お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願がかない慶長16年(1611)に男子「幸松麿」を授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢を畏れながらもその恙無いご成育を祈り三体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いかない、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩の際、当寺に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩23万石の城主となり、会津松平家の祖となります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。平成15年道文記之』
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御水屋。
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こちらは秋葉大権現?…と思ったけど中は…だるま堂?!
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庚申塔、橋和屋地蔵など。
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秋葉講記念碑など。
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