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津軽忠臣之碑を目指します。目印はこの手書き看板(津軽忠臣之碑(六羽川の戦い)五百米先・右側)のみ。住所的は平川市高畑高田。
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しばらく歩いて行くと途中に彌佐堰工事記念碑がありました。
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竣工昭和27年5月1日。結構古いものですね。
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彌佐堰工事記念碑の少し先を右に曲がると津軽忠臣碑です。
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天正7年(1579年)7月4日に安東氏の命を受けて比山六郎・七郎兄弟が津軽に侵攻。その軍勢に滝本重行、北畠顕則らも参陣。浅利氏や大鰐、碇ヶ関方面の土民たちの協力もあり、軍勢は一千に膨れ上がりました。軍勢は乳井建清が城主を務めていた乳井城・乳井茶臼館・乳井古館に攻め入り、城主建清が留守であった三城は落城。その後、沖館城に攻め入るも城主阿部兵庫介の奮戦により撤退。その後、六羽川の畔において大浦勢と激突。比山勢は占領した乳井茶臼館、大浦勢は大坊・岩館に本陣を置きました。戦いは夕暮れまで続き、大浦勢は次第に追い詰められ、為信本陣の旗本もほとんどが討ち死にしました。本陣にいた田中太郎五郎は為信の身代わりとなり突撃し、為信を討ち取ったと思い込んで油断した比山勢は隙をつかれ、大将比山六郎が討ち死にしました。総崩れとなった比山・北畠・滝本勢は敗走し大館に撤退。大浦氏はその後津軽を征服して外ヶ浜と糠部の一部を征服。為信の身代わりとなった田中太郎五郎については、その後、嫡子田中宗右衛門に百石を加増し、津軽の忠臣の家として遇されました。昭和34年、子孫にあたる元外交官佐藤尚武らにより、「津軽忠臣の碑」が建立され、かつてこの地で戦があったことを現在に伝えています。
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建碑之由来…『田中太郎五郎は天正7年7月4日六羽川の戦において藩祖為信公の身代りとなり鬼神を泣かしむる壮烈な戦死を遂げた。津軽の忠臣であるがそれによって藩祖は危きを免れ遂に群雄割拠の津軽を鎮撫平定し人民を塗炭の苦より救うことができた。幸にも太郎五郎戦死の場所が発見されたので其の英霊を慰めると共に功績を顕彰するため同志相謀り此の地に鎮魂碑を建立し偉勲を萬世に傳へんと欲するものである。昭和34年7月4日。建立者:平賀町文化郷土史協會・在弘前市平賀郷友會・田中太郎五郎建碑協賛會』
その他資料より…『天正7年に檜山の下国安東愛李(あやすえ)が、碇ヶ関から津軽に侵攻し(為信に滅ぼされた大光寺左衛門の二子六郎・七郎の比山勢とも)、茶臼館に立てこもった。このとき、"六羽川の戦い"で為信は一時窮地に追い込まれたが、田中太郎五郎吉祥が為信の影武者となって討死した。改修された六羽川の西方のリンゴ園の傍らに、昭和三十四年七月建立の「津軽之忠臣碑・田中太郎五郎戦死之跡」碑が建っている。』
田中太郎五郎戦死の跡…『(前略)…表面の上部題字は津軽家当主義孝氏の執筆で「津軽之忠臣」と横書されその下方に「田中太郎五郎戦死之跡、太郎五郎名吉祥田中家之祖也 後裔佐藤尚武謹書」と書かれている。裏面に建碑の由来として…(中略)。田中太郎五郎は永禄11年(1568)5月甲斐南部庄より上下29人で津軽に来たが、下駒越村に住し知行百石を賜わり馬添役として為信に召抱えられた。天正7年(1579)為信のため、津軽を追われた大光寺の滝本播摩守を中心に、浪岡の落人北畠左近、乳井の落人南部六郎、七郎兄弟が比内の浅利実義と津軽上浦(大鰐、碇ヶ関方面)の土民達の援けをうけ、三百余騎をもって津軽奪還に進撃して来た。これが有名な六羽川の戦いであり、為信にとっては天下分け目の大合戦である。南部比内勢は、乳井の茶臼館(六段坂の上部)に本陣をおき、大浦勢は大坊、岩館に陣立した。戦いは激烈を極め、一進一退のまま夕暮れの迫る頃となったが、勝敗は決まらなかった。特に滝本播摩、北畠左近は剛勇をもって恐れられ、旗本勢は次々に討死し、為信の命運は既に尽きたかに見えた。その時太郎五郎は為信の具足を着し乗馬して「われこそ大浦右京亮為信なり。わが最後をとくと見よ」と大音声にさけんで群がる敵のまっただ中に突進した。これを大豆畑に隠れて見ていた播摩勢の鉄砲組が一勢に発砲したため、太郎五郎は数発の弾丸をうけて華々しく戦士した。敵将を討ちとったと思った南部比内勢は急に気がゆるみ、油断したところを大浦勢は虚を突き、どっと突撃したため、逆に南部勢は総くずれとなり遂に勝敗が決した。津軽平定後はこの太郎五郎の功績を讃え、一子宗右衛門が十二歳となったとき二百石に加増し新屋村に粘餅田という美田三百人役を与え、永く功臣の家として遇した。この碑建立のきっかけは、国際的にも著名な政治家であり外交官だった佐藤尚武氏が、常々先祖の戦死場所を確かめたいという念願を持っていたが、昭和三十三年九月四日来町され、茶臼館に上って、当時の豆畑を推測し昔から豆畑であったという前記の場所を戦死の跡と決定されたのが顕彰碑建立の糸口となった。田中太郎五郎顕彰会では、前記高畑字高田一番二号三十坪を成田忠一さんから買い受け、昭和三十四年七月四日の命日を期して佐藤尚武氏はじめ田中家所縁の人々が多数参列の上盛大な除幕式を行なったものである。』
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この一角に何やら崩壊した石がありました。近くでよく見てみると…
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まさかの津軽之忠臣の文字!
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紀年銘は昭和43年。
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「…米地点に鎮魂碑所在…」、「崇敬」という文字だけが見えました。裏側は見ていません。肝心な部分が見えませんが、内容からして最初の手書き看板の場所にあった案内用の石碑かも知れませんね。
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津軽忠臣碑から少し離れまして…
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平川市原田稲元にある原田稲元農村公園に行きました。
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この公園の一角に比較的新しい立派な祠があったので寄ってみました。
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中には地蔵様が3体、丁寧に祀られていました。
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