イメージ 40
野辺地の総鎮守。
イメージ 41
参道。
イメージ 42
参道の石燈籠一対(平成6年9月15日・還暦報賽・第13代宮司林全造)。
イメージ 43
イメージ 44
見応えのある石燈籠でした。
イメージ 45
イメージ 46
イメージ 47
イメージ 48
イメージ 49
イメージ 50
イメージ 51
イメージ 52
参道の狛犬一対(昭和12年9月15日)。
イメージ 53
イメージ 54
更に参道を進みまして…
イメージ 55
鳥居。
イメージ 56
イメージ 57
社務所。
イメージ 58
野辺地八幡宮です。
イメージ 59
広い境内ですね。
イメージ 60
石燈籠一対(嘉永5年)。
イメージ 61
イメージ 62
紀年銘の他、「奥御國産御會所」、「大坂御仕送御用所」、「施主 御用達 野村治六郎 當町惣商人中 運送人 神通丸庄兵衛」などと刻まれているのが湊町らしく興味深いですね。※野村治六郎と見えましたが、六代治三郎(1828-1900)のことかな。野辺地の宿老になるなど地域社会で重きをなし、明治時代に入ると海運業での資金の蓄積をもとに土地の取得を進め、明治22年の時点で県内第2位の国税多額納税者となります。明治天皇の御巡幸があったのも6代治三郎の時代であり、また明治23年の国会開設にあたって貴族院議員に当選。
イメージ 63
イメージ 64
イメージ 65
イメージ 66
手水舎。
イメージ 67
昔の社号標。
イメージ 68
大正5年11月3日・五代目杉山久之丞。
イメージ 69
野辺地八幡宮の御祭神は応神天皇(誉田別命)。慶長3年(1598)創建。正徳4年(1714)本殿再建の際に国主南部信濃守利幹公に届け出た旨の棟札あり。天保14年鞘殿拝殿の再建。古くから神仏習合し、別当寺院の成就院が祭祀を司り、関が原の戦いの落ち武者であった林善成が修験僧となって代々継いでいます。
イメージ 70
明治の神仏分離により仏教色が一層され、明治5年に郷社に列格。現在の社殿は平成4年改築によるものですが、本殿は正徳4年当時のもので県重宝に指定。
イメージ 38
イメージ 39
御神徳…商売・交通・航海・開運・延寿息災の神。
イメージ 37
唐破風懸魚。
イメージ 36
木鼻。
イメージ 33
イメージ 34
イメージ 35
本殿覆屋。
イメージ 32
野辺地八幡宮本殿(県重宝指定年月日:平成9年7月30日・構造形式:一間社流造、栩葺、東面)…『野辺地八幡宮の創建は、慶長年間(1596-1614)のことと伝えられる。現在の本殿は正徳4年(1714)に再建されたもので、拝殿を兼ねた覆屋の中に納められている。桁行1間、梁間1間の1間社流造で屋根は栩葺。向拝柱上の象鼻や脇障子などの各所の彫物は優れており、また建築手法には地方独特のものも見られる。この本殿は建築形式を損なうことなく建立当初の姿をそのまま示しており、江戸時代中期の神社建築のありさまを示す格好の文化財建造物としてきわめて価値が高い。』
イメージ 31
側面図。
イメージ 30
正面図。
イメージ 29
現状平面図。
イメージ 28
野辺地八幡宮近郊の古絵図。
イメージ 25
イメージ 26
イメージ 27
狛犬一対(平成6年9月15日)。
イメージ 21
イメージ 22
イメージ 23
イメージ 24
神輿庫。海上渡御が行われています。
イメージ 20
境内末社金比羅宮。こちらは文政5年勧請の白峰神社かな。
イメージ 18
イメージ 19
御祭神は大物主命他。御神徳…航海・漁業・開業・開発の神。
イメージ 17
狛犬一対(平成15年9月15日・古稀報賽・第13代宮司林全造)。
イメージ 14
イメージ 15
イメージ 16
本殿は文政5年(1822)建立(鞘殿は平成10年再建)。
イメージ 13
野辺地八幡宮末社金刀比羅宮本殿(指定年月日:平成9年7月30日。構造形式:一間社流造、正面千鳥破風付き、軒唐破風付き、こけら葺、北面)…『金刀比羅宮本殿は、仙台屋安田彦兵衛をはじめとする野辺地の廻船問屋たちが、海上安全を祈願して文政5年(1822)に勧請寄進したものである。一種の建築型厨子で、現在は覆屋の中に納められている。一間社流造で屋根はこけら葺。昇竜、下竜の彫刻をはじめとする各部の彫刻は優れており、全体の形態も均衡が取れている。建築にあたった大工棟梁は盛岡の畠山清八である。建立当初の姿をそのまま残しているこの本殿は、江戸時代から湊町として発展してきた当町の歴史を象徴する建造物と言える。平成7年3月野辺地町教育委員会』
イメージ 12
側面図。
イメージ 11
正面図。
イメージ 10
現状平面図。
イメージ 9
安政4年勧請(※正確には安政2年に天満宮、安政4年に北野神社勧請)の末社天満宮。御祭神は菅原道真公他。御神徳…知能・学問・技芸・防火・虫封の神。かつて野辺地城内にあった天満宮と、八幡宮境内に建立された北野神社が文久3年に合併したもの。野辺地戦争において亡くなった津軽藩士の小島左近貞邦の兜が奉納されているそうです。小島左近貞邦の兜には次のような言い伝えがあります。
イメージ 8
戊辰戦争で津軽藩士小島左近貞邦と南部藩士七戸の小原未造の一騎打ちとなりました。火花を散らす刀の打ち合いが続き、両軍の大将や兵士達も身動きせずにこの一騎打ちを見守っていました。しかし南部軍のとある兵士がその勝負に割って入り、後ろから左近の足を丸太棒で払い、倒れた左近はその隙をつかれて小原に斬りつけられました。左近は助太刀した兵士を睨みながら「卑怯者、汝を7代にわたり、呪ってやる」と言い残して息を引き取ります。小原末造は助太刀した兵士に左近の兜を褒美にと与え、兵士もまたその手柄を喜んで、家に持ち帰り床の間に飾りました。その後、兵士は突然病気で亡くなり、家族にも不幸が続き、家業もうまくいかなくなったそうです。それを見かねた問屋の旦那様がお金を貸し、その代わりにと兜を差し出すと、今度は旦那様が急病になります。原因もわからず祈祷師にお祓いしてもらうと、祈祷師は「恨みの兜、兜を返せ」と告げたそうです。そこで兜を兵士に返して事情を話し、その後八幡様に納めて拝んでもらったという言い伝えです(要約)。
イメージ 7
狛犬一対(平成15年9月15日)。
イメージ 5
イメージ 6
庚申塔。
イメージ 4
安田栄次郎歌碑(昭和10年陽春)。
イメージ 3
「萬代之敷石」と彫られた碑(大正13年9月15日)。
イメージ 2
「八幡宮基金創設紀年碑」(大正10年9月15日)。
イメージ 1
イメージ 3
イメージ 2