椿山伝説…『この椿山にははかなくも美しい伝説がのこされている。その昔、越前商人・横峰嘉平という人が、船で東田沢に交易に来て、いつしか村の娘・お玉と契りの末は夫婦になろうと親しんでいた。嘉平は商用のため一時越前の国に帰らなければならなくなり、お玉は京の女がつけている椿の油が欲しい、今度来るときは、その実を持ってきてください。絞って塗りたいと名残りを惜しみ泣いて別れた。お玉は嘉平を待ちつづけたが、約束の年もそして次の年も船は来なかった。待ち焦がれたお玉は、約束にそむいた嘉平を深く恨んで、海に入って死んでしまった。村の人々は泣き悲しみ、海が見えるこの地にお玉の墓を作って埋めた。三年を経た次の年、嘉平は約束の椿の実を持ってきたが、お玉の死を村人から聞いた嘉平は倒れんばかりに嘆き悲しみ、せめて慰めにと椿の実をお玉の墓のまわりに埋めてやった。それが芽を出し、年々繁殖し、椿が山を覆うようになり、今日の椿山になったという。花咲くころになって枝を折る者がいると、清らかなお玉が現れて、その花を折り給うなという。明治の文人・大町桂月もその紀行文の中で、この椿山の話を書きとめ、次の短歌を残している。「ありし世のその俤の偲ばれて今も八千代の玉つばきかな」現在も土地の人々はお玉の墓を守っており、このあたりは横峰という地名、そしてその昔において誰かが椿を植樹したという話は聞いたことがない。平内町史より抜粋・作成東田沢町会』
『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』によりますと、「半島の先端が椿山である。広さ2200平方キロの丘陵地帯に、ヤブツバキがびっしりと群生し、ツバキの自生北限地として国の天然記念物である。雪国のツバキは遅く、初夏のころが花時で、満開のときは海面も紅に映るとまでいわれる。ここのツバキの由来について、他国の船人と契りを交わした村の娘の悲恋物語が名高い。」と紹介されています。
菅江真澄は次のように記しています…『小川の流れの岸にある椿明神という祠にぬかずいた。神社の縁起は、むかし、文治のはじめごろとかいう。この浦に美しい娘がいたが、他国の船頭で、毎年来てこの浦々から宮木を伐り積んでゆく男と契り、末は夫婦になろうとなれ親しんでいた。その船頭が帰国するおりに、女がいった。「都の人はいつも椿の油というものをぬって、髪の色もきよらかにつやつやとひかり、椿の葉のようにつやがあると聞いています。こんな賤しい漁師の娘でも、櫛をとるとき、すこしぬってみたい。わたくしにふさわしいものならば、来年のみやげに椿の実を持ってきてください。絞ってぬりましょう」となごりを惜しみ、泣いて別れた。年があけると、この船頭が来るのを一月から十二月まで待ちつづけたが、願いはむなしく船は来なかったので、つぎの年も春から一年待ちこがれた。どうしたわけか、つづいて二年ばかり船頭が来ないので、娘は、この男はほかの女に心をひかれたのではないかと、約束にそむいた男を深く恨んで、海にはいって死んでしまった。その女の死体が波で寄せられてきたのを、浦人たちは泣き悲しみながら横峰というところに埋めて、塚のしるしに木を植えて亡きあとをとぶらった。ちょうどその時、かの船頭が三年を経てここに漕ぎつけ、「やむをえない仕事に従っていて、二、三年も航海することができなかったが、このたびやってまいりました。かの娘は無事でしょうか」と尋ねた。浦人が、しかじかと事情を話すのを聞いて、船頭は、これは本当だろうか、どうしようと、倒れんばかりに嘆き悲しみ、血の涙を流して泣いたが、いまはなんのかいもない。せめてその塚に詣でようと横峰に登っていって、苔の上に額をあてて、生きている人にものを言うように後悔のことばをいくたびも告げ、持ってきた椿の実を女の塚のまわりにまいた。「今は苔の下に朽ちてしまう黒髪に、どんなにこの油をぬっても、つややかになろうか、なるはずはない」と、ただおおいに泣いて、やがて船を漕ぎ去っていった。その椿が残りなく生いでて林となり、ことにみごとに花の咲いた枝を人が折りとると、清らかな女があらわれて、この花を折ってはいけないと、ひどく惜しんだので、漁師も山仕事をするものもみな恐れて、女の亡き霊を神にまつったのであるという。その神の祠も、今は横峰からこのように別のところにうつしてあった。』
転覆した船の形をしているとも云われる小高い丘の上へ。
「よこむねかひおたま」とあります。横峰嘉平お玉。ってことはお墓ではないのですね。
紀年銘は昭和38年12月3日。笹原トメという人が椿山で朽ちかけていた祠から現在の場所に移して祀った時に建てたもの。
そして肝心のお玉の像は綺麗に服が着せられているため、どんなお姿なのか…肝心の中身、紀年銘など一切わかりませんでした。
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