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県道243号線沿いにあります。当時の津軽軍本道隊進路。
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ちなみに紹介することはないと思うのでここで述べておきますが、ここから程近い街道沿い(馬門)には小さな神社がありました。私が見たのは恐らく家ノ上の「ナカの稲荷」。高い所にあって登れませんでした。
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調べたところによりますと、馬門には5つの稲荷様があるといいます。馬門地区を3つに分け、それぞれの地区で「カミ・ナカ・シモ」の稲荷を大正7年頃より祀っています。その他横山稲荷(横山幸治家)やカバタ稲荷(カバタ横浜家・横浜博家)があります。余談でした。
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野辺地戦争戦死者墓所。
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野辺地戦争戦死者の墓所…『京都の鳥羽・伏見において始まった戊辰戦争は、やがて全国を巻き込む内戦となった。東北地方の諸藩は、官軍に対抗して奥羽越列藩同盟を結成したが、各藩の思惑は一致せず、秋田藩・弘前藩などは、その後官軍支持に立場を変えた。明治元年(1868)9月22日夜半、弘前藩の軍勢約180人が突如南部領に侵攻した。本道を通った一隊は藩境の村、馬門に火を放ち野辺地村に迫った。他の一隊は、山道を通り野辺地村の代官所をめざした。藩境の防衛にあたっていた盛岡藩・八戸藩連合軍は、これに応戦し銃撃を加えた。夜明けまで続いた戦いの後、弘前藩の軍勢は40余人の死傷者を出し敗走した。この頃、東北地方の戦乱もようやく終結しようとしていた。江戸幕府支持を続けた盛岡藩は、その後伊達領白石に転封された。野辺地戦争の翌年、弘前藩は戦死者27人の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てた。明治維新における本県の歴史を伝える貴重な史跡である。平成元年11月野辺地教育委員会』
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野辺地戦争戦況図(明治元年9月23日早朝)。
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『明治元年(1868)9月22日夜半、小湊に集結していた津軽軍約180人は野辺地を夜襲しました。津軽軍の作戦は、隊を3隊に分け同時に野辺地を挟撃するというものでした。街道沿いに進んだ一隊は、馬門村に火を放ちさらに野辺地村に向けて進攻しましたが、笹舘から大橋付近まで軍を配置した南部軍と川をはさんで銃撃戦となりました。津軽軍はいったんは大橋を渡りますが八戸隊をはじめとする南部軍の反撃をうけ退却しました。一方、山道を通った一隊は、雨のため予定の時刻よりやや遅れて観音林付近に到着し野辺地代官所を砲撃しましたが、代官所付近の高台に配置された南部軍の銃撃をうけることとなりました。遊軍として本道隊と山道隊の間を進んだ一隊は、夜間の山中で道に迷い、ついに戦いに参加することはできませんでした。戦いは翌朝の明け方まで続きましたが、地形状有利な場所に位置した南部軍の反撃を受けた津軽軍は多くの死傷者を出し敗走しました。墓石は、この戦いの翌年に弘前藩によって建てられたもので、戦死した津軽軍の兵士のうち27人の名を刻んでいます。』
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山田要之進楯雄
田中又蔵正心
山川啓吉清高
山内直吉永儀
小野政之助但正
井関運八祐綱
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土岐貫貞豪
高木孫市正矩
佐々木豹次郎貞之
佐々木良作久勝
山中重次郎泰坦
成田忠次郎武邑
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大川豊太郎利清
佐野左吉芳成 
今銀作利宗
竹村長太郎友之
大川元太郎行忠
粂田巳八隆文
柏原村 文作
松森村 清蔵
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小嶋左近貞邦
谷口永吉貞光
中田盛弥産紀
工藤岩吉久清
森山勝三郎安久
羽賀多吉定英
成田清太郎正勝
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