イメージ 32

イメージ 33
国史跡垂柳遺跡…『垂柳遺跡は、津軽平野の東部、田舎館村に所在する弥生時代中期の水田跡で、東北地方北部において弥生時代の稲作が最初に確認された遺跡である。検出された約4万㎡の水田区域は東・中央・西区域に分かれる。各区域は大畦畔や水路でいくつかの区域に地割りされ、さらに小畦畔によって碁盤目状に配置される小区画水田に細分される。この水田面には無数の足跡が残る。中央の水田区域北方では土坑墓が検出され、墓域が存在する可能性もある。水田稲作が営まれた時期を示す田舎館式と命名された弥生土器、様々な生産活動を反映する多種の石器・木製品、植物種子などが多量に出土した。これらは西日本からの波及だけでなく、東北地方南部や北海道との交流を示すものも含んでいる。以上、本遺跡は良好な遺存状態の遺構、豊富な遺物を伴い、東北地方北部への初期稲作農耕文化の様相を示す貴重な遺跡である。よって、史跡に指定しその保護を図るものである。平成12年4月11日文部大臣中曽根弘文』
イメージ 34
弥生時代中期の水田を再現しています。
イメージ 35
イメージ 36
イメージ 37
イメージ 38
イメージ 39
遊稲の館。
イメージ 40
遊稲の館内。
イメージ 41
茶の間。
イメージ 42
展示室。
イメージ 43
祝い亀。
イメージ 44
イメージ 45
題名「CHAWONDER」・作者「MAJIO」。
イメージ 46
イメージ 47
弥生原風景公園。弥生時代の水田・水路・住居跡が残る国史跡「垂柳遺跡」で、当時の水田を復元した弥生水田体験田と、周辺の自然環境を中心とした景観を想像した公園です。
イメージ 48
イメージ 49
『浅瀬石川の肥沃な扇状地に育まれた2000年の農業の人のくらし~2000年の歴史をもつ垂柳猿賀地区の農業と人々のくらしを見つめ直し、田園空間博物館として紹介します。地域住民の皆さんが博物館活動に参加することによって、郷土を愛し、魅力的な農村づくりができることをめざします。更に、博物館を広く知ってもらい都市住民との交流を活性化させることによって、農業・農村地域の活性化につながることを期待するものです。』
イメージ 50
『遺跡発掘調査による出土遺物・種子分析・花粉分析の結果から、2000年前には下に表示しているような樹木がこの辺り一帯に樹生していたことが分かります。トチノキ・コナラ・クリ・クルミ・スモモなどの堅果類、サンショウ・ヤマブドウ・スグリ・アケビなどは食用として採集されていたことを想像することができます。ヤチダモ・ハンノキ・ダケカンバなどは幹がまっすぐ伸びる性質をもっているため、建築材として利用された可能性があります。また、ヤチダモは、非常に堅いことから鍬などの農具として利用されていたようです。』
イメージ 51
遠くに見えるのが道の駅いなかだて「弥生の里」です。あちらは田んぼアートで大変賑っています。
イメージ 52
逆に田んぼアートの展望所から見るとここです。
イメージ 53
田舎館村埋蔵文化財センターへ。
イメージ 54
見れる!歩ける!さわれる!写真撮り放題!素敵です。
イメージ 55
弥生人の足跡。
イメージ 56
イメージ 57
イメージ 58
検出された無数の足跡。凄い。
イメージ 59
同一人物と思われる歩行経路。
イメージ 60
垂柳遺跡小史…『田舎館村では、古くは明治時代から土器が出土しています。記録上に残る一番古いもので、1897年に田舎館村東田という地名が「日本石器時代人民遺物発見地名表」という本にでてきます。(東京帝国大学出版)1936年に完成した国道102号線の工事の際にも、たくさんの土器が出土しています。このような田舎館村から出土する土器に注目した一人の考古学者がいました。東北大学の伊東信雄氏です。伊東氏は、1950年に田舎館村を訪れ、八木沢誠次氏の所蔵していた資料を調査しました。この土器を「津軽地方の弥生式土器ではないか」と考えたのです。しかし、このころはまだ稲作農耕を証明する炭化米・籾痕のある土器・石包丁などは発見されておらず、万人を納得させるだけの資料はそろっていませんでした。たとえば、杉原荘介氏は弥生式土器の北限を東北地方中部の岩手県水沢市常磐広町遺跡出土土器とし、田舎館出土の土器を弥生時代のものとは認めませんでした。また、江坂輝弥氏は田舎館出土の土器を弥生文化の影響を受けていることは認めながらも、弥生文化の特徴である稲作が行われた証拠がないから、弥生式土器とは呼ばずに続縄文式土器と呼ぶべきだとしていました。1956~1957年にかけて行われた耕地整理の際にも、大量の土器や石器が出土しました。工藤正氏はたくさんの土器の中から籾痕のついた土器をみつけ、さっそく弘前市の成田末五郎氏を通じて伊東氏に連絡をとりました。これがきっかけとなり、1958年11月に垂柳の地ではじめての発掘調査が実施されたのです。調査の結果、大量の遺物とともに200粒以上の炭化米が発見されました。このときの発見を伊東氏は後に「これで田舎館出土の土器が弥生式土器であり、その時代に津軽平野で米が作られていたことが完全に証明されたわけである。これは青森県農業史上の大きな事実であるばかりでなく、日本考古学史上の最大な発見である。わたしにとっては30年前に自分のたてた仮説を自分の手で実証することができたわけで、まさに会心の発掘であった。」としるしています。しかし、山内清男氏においては「東北地方北部は、北海道と同様に続縄文式土器が主体であって、弥生文化を多少取り入れたものと解釈する。」と否定的でした。また、当時の研究者の多くは田舎館出土の土器に伴っている米の存在は認めても、このような寒冷な地で、当時稲作が行われていたことは考えがたく、南方の温暖な地で作られたものが、交易によってこの地にもたらされたと考え、なおも伊東氏の説には否定的でした。それから23年後の1981年秋、遺跡の近くを国道102号バイパスが通ることになり、試掘調査を行うことになりました。白い火山灰に覆われていた水田跡の発見です。翌日、弘前大学の村越潔氏に現地で確認してもらい、お墨付きをいただきました。発掘現場にいた工藤正氏は「最後のものがとうとうでましたよ。」と伊東氏に報告し、伊東氏は「やっとでましたね。私は初めて垂柳の地形を見たとき、この平野では稲作以外に考えられないと確信していた。」と答えたそうです。また、工藤氏は「来年の本格的発掘調査で農具が発見できれば完全に稲作栽培が行われていたことを実証できることになります。」と目を輝かせていました。その工藤氏は、翌年の春にこの世を去りました。また、伊東氏は1982年の夏、発掘現場で続々と姿を現す水田跡の上に立っていました。「私は自分の唱えた学説が間違いでなかったことが垂柳水田の発掘によって証明されたのを喜ぶと共に、なぜ青森県のような気候冷涼の地に稲作が可能であったのか、垂柳水田によって代表される東北北部の稲作農耕がどのようにして始まったのか、またそれがどのように変化して今日に至ったのかについて、今後も自然科学者を含めた同志とともに研究を進めていく必要がある。」とした伊東氏も、1987年にこの世を去りました。1986年から、村教育委員会による発掘調査が開始され、1997年、範囲確認の調査が完了しました。調査の完了に伴い、1999年3月、文部大臣に国史跡指定の申請書を提出。同年5月21日、文化財保護審議会より文部大臣に答申がなされました。2000年4月11日、史跡垂柳遺跡として告示決定されました』
イメージ 31
垂柳遺跡関係略年表。
イメージ 30
田舎館村埋蔵文化財センター…なかなか凄いです。
イメージ 23
イメージ 24
イメージ 25
イメージ 26
イメージ 27
イメージ 28
イメージ 29
13本もの矢が刺さっている人骨(復元)。
イメージ 22
生々しい戦いの跡(首のない人骨)。
イメージ 21
埋葬された男性の腕には14コの貝輪がつけられていた。
イメージ 20
ガラス床苦手(笑)
イメージ 19
土器も触れる!ドッキドキ!
イメージ 18
かなり見応えありました。
イメージ 15
イメージ 16
イメージ 17
隣の田舎館村博物館にも行けます。
イメージ 13
イメージ 14
田澤茂の絵画があります。
イメージ 11
イメージ 12
田澤茂略歴。
イメージ 10
彫刻もたくさん。
イメージ 9
栃ノ海像。
イメージ 8
「休耕地に佇む百姓老人」(1973年日彫展初入選)が個人的にインパクト大でした。
イメージ 7
彫刻展示品・彫刻制作者紹介。
イメージ 5
イメージ 6
第49代横綱栃ノ海晃嘉のコーナー。
イメージ 3
イメージ 4
この他にも歴史的資料や民俗資料、農具等色々とありましたよ。
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 2