はじめ館岡村西方の平滝沼北東部に開村し、「津軽信政公事績」によりますと「元禄10年(1697)10月広須御新田之内平滝沼近傍へ屋敷地取設、引越之者共へ家壱軒に付銀六拾文目分の材木并飯米五俵宛被下置畑作取付せ、其他右へ寄り任に大網壱箇船壱艘被下置、長浜及平滝沼にて漁業渡世之足に到させ候」とあり、藩の援助のもとで半農半漁を目指していたことがわかります。しかしながら海風が強く耕作には適さない土地であったため衰微。享保10年(1725)に庄屋安田七右衛門をはじめ4軒が現在地に移ってから家数も増え、享保12年(1727)に広須新田木作通り35か村のうちの1村として見えます。宝暦4年(1754)の検知水帳によりますと水田耕作を主とする村。嘉永3年(1850)の松浦武四郎「東奥沿海日誌」には家数40軒斗とあります。
元禄10年10月から享保10年までの間にあった平滝という部落の跡地というわけですね。現在は平滝沼公園として綺麗に整備されています。
平滝村廃村跡…『昔々、鯵ヶ沢湊から十三湊への街道沿いに平滝という部落がありました。強い西風と飛砂と戦いながら、部落の人々は必死に農耕、漁業を営み、家数も30軒ほどになり藩主通行の際の小休所ともなりました。しかし自然の猛威に農耕は思うようにならず、村は衰朽の一途をたどり、ついに4軒だけとなり、享保10年(今から約260年前)村人達は現在の平滝へ移り住みました。この附近の大きな松は当時の庭木で有ったと言われており、古しえの十三街道跡と共にひっそりと昔を物語っています。昭和61年7月つがる市・つがる市観光物産協会』
当時の庭木であった松。
円形に三十三観音が配置されています。
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裏面にも紀年銘や奉納者名などが書かれています。一部だけ紹介。「再賀講中 昭和7年旧1月1日」「昭和7年6月19日善積村中」「教心会員」「昭和7年5月3日」「永田村 菰槌村」「沼舘村」「昭和7年旧7月千年村講中」などなど。つがる市中の村の名が見え、奉納日は昭和7年が多いようです。
中央には救世大薩た(土+垂。≒菩薩)。
手に巻かれている布は本物ですね。
台座正面には「救世大薩た 永平慧昭」とあります。
台座横には教心團敬心會會長野呂忠一とあります。
平滝沼の案内説明板には「高村光雲作といわれる観音像」と紹介されていますが、そのような記述は見当たりません。台座の説明によりますと、設置者は木造町観光協會で、工事設計及び常任監督は副会長越後谷權四郎、昭和31年8月5日起工、仝9月15日竣工とあります。
「慈悲」と刻まれた碑。
裏面「平成2年8月佛日木造町長盛貢」。
「觀世音 志水謹書」と刻まれた碑。
裏面「昭和7年旧6月1日野呂善造建立」。
「敬心發會紀念」碑。
裏面「昭和壬甲7年旧6月1日 會長野呂忠一 妻八重建立」。
「忠魂碑」。弘前第八師団長西義一書。
「故一等飛行士一等航空士野呂忠三郎君之碑」。逓信大臣從二位勲一等伯爵兒玉秀雄書。
裏面(たぶん間違ってる!)「野呂忠三郎君碑 野呂忠三郎君明治三十九年八月十六日生於青森県西津軽郡館岡村大正十三年三月卒業弘前中學之立志上京學校於東京高等工藝學校機密機械科及東京帝國大學工学部航空科成績抜群為同學所推脉後卒業東京飛行専門學校而更修航空法及気象學於所澤陸軍飛行學校技漸進名溢顯遂為一等飛行士昭和六年六月十一日依帝國飛行協會飛行機操縦規程受賞金壹千圓求圖至本年五月十一日君操縦愛機練習於羽田上空隅二機生損傷不能飛行乃避民家而不時着陸其除■幸身■重傷遂不起君資性温良沈着又■孝悌篤學間故郷人望君之成功邦家待君之将来令皆空■悲夫銘曰 郷學竒才國家啓■豪 英名不朽 與巖嶺高昭和十二年八月十一日青森縣立弘前中學校正五位勲五等椿繁藏撰 髙山松堂書」。
「喜びも悲しみも共に暮らしたこの東日流子子を案じる姉の姿や 南無観音力 吉幾三」
彰功碑「野呂武左衛門翁之碑」青森県知事山崎岩男題字。
裏面「野呂家は300年にわたり代々率先して木造地方の新田開発と屏風山植林とに大きな功績を遺したが、中にも明治35年に死去した九代武左衛門翁は九里半に及ぶ新松仕立山造林の偉業を完成した。依てこの恩恵を喜び合う部落民は永久に感謝の誠を捧げる。昭和32年7月24日館岡財産区建立 筆者佐藤公知 田中父藏」。
屏風山解放記念碑(屏風山解放40周年記念事業実行委員会)。
近くには亀ヶ岡霊園もあります。洪福芳宗とあるので、同地区の洪福寺で管理されているのでしょうね。
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