
旧浅草橋…『浅草橋という町は昭和9年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。』

旧町名区域図。

旧町名位置図。

浅草見附跡。

浅草見附跡(裏面碑文※状態があまり良くなくて間違っているかも)…『浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永13年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで、昭和9年6月1日、現在の浅草橋一、二、三丁目の町名が生れた。昭和31年10月1日開都500年大東京祭記念浅草南部有志観光協会之を建てる』


明暦の大火の際には浅草御門を閉鎖したために多くの焼死者を出しました。両国橋はその経験から避難路を兼ねて架けられたものです。ちなみに浅草御門すぐ近くの初音森神社に土中から発見された浅草御門の門柱が保存されてます。

牢獄からの罪人解き放ちを集団脱走と誤解した役人が門を閉ざしため、多くの避難民が炎に巻かれ、塀を乗り越えて堀に落ちていく絵図。

浅草橋を渡ります。


屋形船がいっぱい。


江戸時代から200年以上続く老舗の三浦屋です。

橋を渡ると郡代屋敷跡があります。


郡代屋敷跡(中央区日本橋馬喰町二丁目地域)…『江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。関東郡代は、天正18年(1590)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永19年(1642)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688-1704)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政4年(1792)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化3年(1806)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。平成20年3月中央区教育委員会』

江戸時代の石垣石もありました。

出土した江戸時代の石垣石…『この石が出土した場所は、ここから西へ約5、60m行ったところになります。そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った柳原土手という土手でした。神田川は江戸城の防御のための堀の役割を果し、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東にある浅草橋御門と呼ばれる城門があり、この一帯は江戸城内でも重要な位置にあたります。この石は、平成19年12月から平成20年5月にかけて行なわれた発掘調査において、地下1mほどで発見されました。伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石です。こうした石が6段前後、高さ3~4mに数十個積まれた状態で見つかりました。これは江戸城の防御を固める石垣です。土手の南側を補強する意味もあったのかもしれません。土手の形に沿って東西に長く築かれていました。今回の発掘調査で、はじめてここに石垣が築かれていたことがわかった新発見の資料で、まさにこの一帯が江戸城の一角を成していたことがわかる貴重な出土遺物です。』

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