
東津軽郡外ヶ浜町三厩中浜に鎮座している稲荷神社です。御祭神は保食神。

現在の中浜地区は三厩本町と六条間の間の地区であり、吉田松蔭が小泊から山越えした松蔭道のある算用師を含みます。天文3年(1534)に浪岡城主北畠家が調査した津軽郡中名字によりますと、竜浜と共にこの三吉(算用師)が見えます。しかし、田畑の調査を主とした正保2年(1645)の津軽知行高之帳などよりますと名が見当たりません。貞享4年検地水帳によりますと、三馬屋村、黒崎村あわせて57戸であり、松ケ崎11戸とあります。旧増川診療所あたりから北西の海岸線一帯が松ケ崎とすれば、現在の中浜地区がこれに当たります。文政7年(1824)の神社書上帳では、三馬屋神明宮、増川稲荷宮と並んで、松ケ崎稲荷宮とあります。ただし宮建無とあります。最近の祭典は女性優位で、 権現さまを廻すのも女性が担当。春祈祷のご幣あげも毎年行われます。

車を停める場所がありませんが、義経寺付近からも歩いて行けます。

近くにある厩石。



厩石の由来…『文治5年(1189年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高館で藤原泰衝に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた!藤原秀衡の遺書(危険が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし)のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるよう一心に祈願した。丁度満願の暁に、白髪の翁が現れ、“三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい。”と云って消えた。翌朝巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになりました。』

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