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詳細は以前の記事も参照下さい。
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高照神社…『吉川神道を信奉した弘前藩四代藩主の津軽信政は、自らの葬地を高岡と定め、宝永7年(1710)に弘前城で死去した。五代藩主信寿はその遺言に従って神葬。正徳元年(1711)に廟所を、翌年には本殿などを建立したほか、享保6年(1721)には門前に屋敷割りを行い、現在の高岡集落の元をつくった。その後、七代藩主信寧が拝殿を、九代藩主寧親が随神門や廟所門を整備した。社殿配置は東西に一直線で鳥居、随神門、拝殿・幣殿が並び、廊下を挟んで中門から本殿に至り、更に西方200mに廟所と墓所がある独特の構成となっている。このように吉川神道の教えに基づいた建造物群で現存するのは他に例がなく、更に江戸時代中期の神社建築の特徴をよく現していることから、平成18年(2006)7月、本殿をはじめとする建物8棟と信政公墓2基が重要文化財に指定された。●本殿:桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、唐破風造向拝一間、こけら葺、附宮殿一棟。●西軒廊:桁行四間、梁間一間、切妻造、こけら葺。●中門:一間一戸平唐門、こけら葺。●東軒廊:桁行四間、梁間一間、切妻造段違、こけら葺。●拝殿:桁行七間、梁間三間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、軒唐破風付向拝三間、こけら葺。●幣殿:桁行三間、梁間二間、切妻造、こけら葺。●隋神門:三間一戸八脚門、切妻造、鉄板葺、附高塀。●廟所拝殿:桁行三間、梁間二間、切妻造、背面一間突出、銅板葺。●廟所門:一間腕木門、切妻造、銅板葺。●津軽信政公墓:本墓-八角形石柱一基(銘宝永七庚寅年)、拝墓-方形石柱一基。』
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高照神社配置図。
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高照神社(津軽信政公御神忌300年祭記念事業奉賛者御芳名)…『弘前藩中興の英主と称えられた第四代藩主津軽信政公は、藩祖為信公、二代信枚公、三代信義公と続く藩体制の整備と安定に努め、当代にその確立をみました。更に、岩木川の河川改修、殖産興業を推進、文化面では学問の興隆を図り、現在の豊かな郷土津軽の基礎を築き、宝永7年(1710年)10月18日弘前城において65歳の生涯を終え、遺命により高岡の地に吉川神道の葬法に習い神式にて埋葬されました。五代藩主信寿公は、直ちに社殿の造営を命じ、正徳2年(1712年)三万両を費やして吉川神道に基づく荘厳な社殿を完成させました。平成22年の信政公御神忌300年祭にあたり、新宝物館建設の啓蒙運動・御社殿修復基金の募財・境内整備の記念事業を完遂すべく、広く皆様にご協力をお願い致しましたところ、多くの方々より篤いご奉賛を賜わり、お陰を持ちまして無事万端終了致しました。これ偏に多くの皆様のご支援の賜物と深く感謝申し上げますと共に、ご芳名を後世に永く伝えるべく、ここに顕彰申し上げる次第であります。平成23年6月30日。津軽信政公御神忌300年祭奉賛会会長木村文丸・高照神社宮司津軽承公。』
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忠魂碑、為信公三百年祭祀紀年碑、石灯篭など。
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三の鳥居。
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手水鉢、石灯籠。
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サワラ。
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『樹高25m、幹囲3.5m。樹齢約300年。指定日平成10年11月5日。自然のサワラは岩手県中部が北限であり、遠野市周辺では古いサワラは神木として神社に単木で植栽されている。このサワラは、津軽地方では「地サワラ」と呼び、神社や屋敷に植栽されている。津軽地方で数本確認されているが、大変貴重な存在である。』
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随神門と奉納馬。
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随神門。
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隋神。
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御宝蔵は覆屋の中にあります。
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御宝蔵…『ここには、弘前城中に置くことが出来ない文化財的な物を収めたといわれています。大きさは三・六米(二間)に九米(五間)で享保年代(1720)に建てたと思われます。中の造りには、寸分の狂いもみられません。』
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ウラジロモミ。
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『大きさ右樹高約22m・幹囲4.94m。左樹高約31m・幹囲4.09m。樹齢約200年。指定日平成10年11月5日。ウラジロモミは、栃木県から福島県の山地に多く見られる。津軽地方のモミの木は弘前城跡や弘前市内の主要な神社に植えられており、これらは九代、十代藩主時代(1791-1840)に持ち込まれたものと思われる。植樹された場所を考察すると神木として扱われており、この2本のモミの木も同様と考えられる。高さ、太さとも申し分ないものである。』
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手水舎。
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手水舎…『桁行一間、切妻造で、2本の角柱を掘立柱とし、繋ぎの水引虹梁を渡し、腕木を出して軒桁を受けている。虹梁と棟木との間の欄間や、虹梁、木鼻、腕木には彫刻が施されている。建築年代は不明であるが、様式から拝殿などと同時期に建てられた可能性がある。』
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拝殿及び幣殿。
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天児屋根命、武甕槌神、伊波比主神、比売神、津軽為信命、津軽信政命。
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絵馬には津軽信政公御肖像画。
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拝殿横から中門及び本殿。
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拝殿裏。
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しだれざくら。
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『樹高約16m、幹囲2.76m。樹齢約300年。指定日平成10年11月5日。このしだれざくらは、津軽四代藩主信政公が青森市妙見の大星神社再建完成の際、数百本のしだれざくらを記念に植えたと言い伝えられているが、このとき、高照神社に持ち込まれたものと思われる。この古木は現在、大星神社と高照神社のみに現存しており、貴重な存在である。』
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なにげに天然記念物多いですね。
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神楽殿跡。
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礎石。
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神楽殿跡…『この場所は神楽殿(神楽を奏する殿舎)跡で、現在は礎石のみが残されている。規模は桁行五間五尺、梁間三間四尺で、大正7年(1918)頃まで建物があった。絵図面より、正徳4年(1714)には、すでにこの場所にあったことがわかっている。』
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中門及び本殿。
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本殿裏手から津軽信政公墓へ向かいます。
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御茶水。
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馬場跡…『廟所への参道から20m北にあり、明治初期までこの場所には木が1本も無く、海の砂を敷き詰めた馬場があった。規模は、巾約15m、距離約150m、一周約300mとなっている。現在は雑木林になっているが、土塁などの遺構が残されている。』
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廟所門(文化12年)。
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津軽信政公廟所拝殿(正徳元年)は信政の葬儀に際して建立されたもの。門は閉じられており、津軽信政公墓(拝墓・本墓)を拝むことはできませんでした。廟はニ堂からなり、前の堂内には俗名による「弘前城主越中守藤原信政墓」の墓石、後ろの堂内には「高照霊社」の霊社号碑がおさめられています。鳥居前で拝むと、神社-墓-霊社号碑-岩木山と4つ重ねて拝すことになっています。
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津軽信政公廟所…『津軽藩主4代信政公は、宝永7年10月18日、65才をもって没しました。遺命によって5代信寿公がこの地に廟を建立し送葬しております。』
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この三叉路を左に行きます。
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熊に注意。
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ただの小屋かと思ったら…
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森岡補衛霊社。
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『森岡家7代目盛岡民部藤原元隆は、4代藩主津軽信政公の訃報に接し江戸より帰藩中、津軽領内にて割腹殉死する。津軽家ではこの忠誠心に対して霊地約300平方米程を与え葬むると共に霊を慰さめたのである。』
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