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山神神社のすぐ近くです。
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一見何もないような場所ですが、ここから(三叉路の中間)歩いて行きます。
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鳥居が見えてきます。
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冠木門っぽく見えますが、笠木が壊れただけで、たぶん鳥居だったんじゃないかな。
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更に鳥居。
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この先からは所々に積み石があるので足元に注意しましょう。
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地蔵堂。
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地蔵堂の後ろに西院川原塔。
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慶應年間(1865-1868)に三上定助が田地を開墾中のある晩に不思議な夢を見て、その翌日に田地から古い地蔵尊を発見。それを祀ったのが現在の賽の河原の起源。乳の出ない女性がこの地蔵を信仰すると必ず乳を与えてくれるという言い伝えがあります。青森の伝説にも「飯詰の賽の川原は近くの日影川のほとりで田畑を耕していた農夫が、夢のお告げで発見した地蔵様を祭ったところである。毎年旧暦六月二十四日には地蔵祭りでにぎわう。この日乳の出ない女がもうでると、乳がよく出るようになるといわれた。」とあります。
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大泉寺が管理しており、旧暦6月23日、宵宮、24日は神楽で、相撲大会や馬力大会やサーカスなどが盛大に催され、かつては川倉今泉の賽の河原より賑っていたそうです。
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また次のような話も伝えられています。天明の大飢饉により食べ物が無くなり、強盗などが毎日のように起こっていました。その頃、サイ子という両親を亡くした一人の娘がおり、毎日一生懸命働いていたにもかかわらず、粟を盗んだという疑いをかけられます。サイ子の弁解は受け入れられず無実の罪で死刑となり、無残にも首に石をくくり付け、飯詰川の大渕に投げ込まれました。その後大渕は水田になりましたが田植えには必ず雨が降ると伝えます。またサイ子屋敷に住む人は必ず病死するため営林署の貯木場となりました。後に大渕のあった1本木の近くにサイ子の魂を供養するために地蔵様を建てました。その地蔵様は後に現在の長坂の賽の河原に移されたと言いますが、どれがサイ子地蔵であるかは誰も知らないそうです。
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大変綺麗にされています。
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この中のどれかがサイ子地蔵なんですね。
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