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遺跡は藩政時代の灌漑用溜池の中に水没しております。冬から夏は見ることができませんが、夏から秋にかけて姿を現すそうです…って、夏なんだけど!(笑)秋に行けば確実ですね。
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この日は晴れていたのに、着いた瞬間に車から降りれないほどのスコール!もちろん岩木山も見ることができませんでした。
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晴れていればこんな感じ。ジェンヌ姉さんの写真。
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出土品の砂沢式土器は藤田記念庭園考古館で見ることができます。その他詳しくは『砂沢遺跡発掘調査報告書(図版編)昭和62年度』と『砂沢遺跡発掘調査報告書(本文編)平成2年度』等を参照ください。弘前市立図書館で見ることができます。
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県営大規模老朽溜池事業竣功記念碑。
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砂沢遺跡…『縄文時代の次の弥生時代は、それまでの狩猟採集の生活から「米づくり」が行われた時代をいい、今から、約2,400年~1,700年ぐらい前までの約600年~700年間をさします。砂沢遺跡は青森県の弥生時代を代表する遺跡で、この砂沢溜池から名づけられました。位置は溜池の南側(左手)、岩木山から延びる舌状の低台地の末端、標高17mにあって、冬から夏にかけては水の底に眠り、夏から秋にかけて現れる特異な環境にあります。弘前市教育委員会が昭和59年度~63年度まで発掘調査した結果、弥生時代前期(砂沢期)の水田跡、土坑、溝、縄文時代後期(約4,000~5,000年前)の住居跡などが発見されました。〔図参照〕水田跡は6枚確認され、今から約2,200年~2,100年前のもので東日本最古とされ、また弥生時代の水田跡としては日本最北といえます。形はほぼ長方形をなし、大きさは全体が分るもので約70と80㎡、畔の高さは約15cmで、地形に沿って南(1水)から北へ段々低くつくられています。また、水田の土壌からは、炭化した米などが検出されました。これらを分析した結果、弥生時代の水田跡にみられる熱帯型ジャボニカの特徴が観察されたこと、推定12年間という短期間の耕作であったこと、さらに炭化米の比較からは田舎館村垂柳遺跡(弥生時代中期)の形よりも福岡県板付遺跡(弥生時代前期)により近いことが解明されました。これにより、大陸から北九州へ伝わった米づくりは、かなり早い時間でしかも海伝いにこの津軽の地に伝播したと考えることができます。出土遺物はリンゴコンテナで約430箱分、約1.8t発見されました。その多くは砂沢式土器と呼ばれる弥生時代前期の本県を代表する土器形式で、変形工字文を施しています。器形は、浅鉢・台付浅鉢・鉢・深鉢・壺などで、この中には、遠賀川系土器と呼ばれる北九州で稲作をしていた人々が使った土器にそっくりな土器も出土しており、米づくりの技術と一緒に土器のつくり方も伝わったことを教えてくれます。その他では、蓋や土偶、土版、菅玉など沢山出土しました。中でも石鏃が約200点出土しており、米づくりを行ってはいたもののまだまだ狩猟採集に頼り、試行錯誤で農耕を営んでいたことが伺われます。』
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遺構配置図。
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2号水田跡を南東より望む。
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遺物出土状況。
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砂澤溜池水門守之碑。
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