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港区立芝公園。
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芝東照宮へ。
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御由緒…『(御祭神)徳川家康公御神像。慶長6年元旦御年60歳の時、家臣に命じ之を彫刻せしむ。東京都重要文化財指定。(御鎮座年月)永世国家を守護し国民の繁栄を祈願せんとの仰せにより元和3年3月に当地に奉安す。(祭日)例大祭4月17日(御逝去日)・月次祭毎月1日、17日。(社殿)権現造り。昭和44年完成。鉄筋コンクリート。旧社殿は国宝なりしが戦災により焼失す。(公孫樹)寛永18年三代将軍家光公の手植。昭和5年文部省指定天然記念物。以上』
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御祭神は徳川家康公。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。
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増上寺内境内に勧請。増上寺は天正18年(1590)徳川家康公の江戸入府の際に源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められました。当時は日比谷にありましたが、慶長3年(1598)江戸城拡張工事に伴い現在地に移転。以後、幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持ちます。この増上寺境内の家康公を祀る廟は安国殿と称されました。これは家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」によります。
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安国殿の御神体は慶長6年(1601)正月、60歳を迎えられた家康公が自ら命じて彫刻された等身大の寿像で、生前は駿府城において自らこの像の祭儀を行っていました。安国殿の創建時に造営奉行であった土井大炊助利勝(大老土井大炊助利勝)の手により駿府から護り送られます。安国殿は明治の神仏分離令によって増上寺から切り離されて芝東照宮を称し、御神像を本殿に安置・奉斎。明治6年郷社に列し、社殿は寛永18年(1633)の造替当時のものが維持されておりましたが、昭和20年5月25日の東京大空襲により、御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて社殿悉く焼失。昭和38年に寿像が東京都重要文化財に指定され、昭和44年8月17日に復興奉賛会により現在の社殿が再建されました。
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狛犬。
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手水舎。
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参道。
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社殿。
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向拝。
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芝東照宮鎮座由来記…『(御祭神)徳川家康公。(創祀沿革)当宮御祭神(御神体)は公の生前自ら駿府城に於いて祭儀をなされた寿像である。元和2年4月17日公の薨去の際、公より「像を増上寺に鎮座させ永世国家を守護なさん」と仰せられ翌年3月、現在地に社殿(安国殿)が創建された。明治以降、神仏分離令により芝東照宮となった。旧社殿は権現造りで国賓になったが先の戦火で焼失し、現社殿は昭和44年完成する。公の御神徳による東都を鎮護する代表的なお社です。徳川家康公の思想を御遺訓から学び取ると勤勉・慎重・堪忍・自責・簡素・倹約です。以って世の中の安寧、世界の平和を希求する厭離穢土欣求浄土の御旗に託しているのです。平成6年4月17日芝東照宮社務所』
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東照宮復興祈念碑…『東照宮の御神体であり、重要文化財でもある家康公の寿像は、慶長6年、徳川家康公60歳の新春を迎えられた正月元日、年始の式をおわられたあと、近習丸津某に命ぜられて、公の等身大に彫刻させられたものであります。存生中はつねにみずから、この寿像の祭供を行われておられたと、重要文化財である添書に明記されてあります。本営は、日光、上野、久能山東照宮とともに、わが国四大東照宮として崇敬者の尊敬をあつめている由緒ある名宮であります。こ寿像が本営にまつられましたのは、元和2年4月、御違例によって、増上寺の観智国師、了的、廊山の三高僧が駿府城に登営され、そのとき家康公より「この像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん」と仰せ出されました。そしてこの丸山の地をトして社地に定められ、元和2年10月造営されたのであります。その後、寛永11年模様替えがあり、同18年には社殿さらに新改築成って、その壮厳なる社殿は大正4年国宝建造物に指定され、神域の公孫樹(いちよう)は昭和5年8月、天然記念物に指定を受け、増上寺とともに伽藍の美を誇って居りました。また、寛永年間より明治維新まで別当安立院が奉仕し、明治3年の神仏混淆廃止令によって、明治6年7月31日郷社に定められ、以来、芝公園町内の氏神さまとして、氏子はもとより、全国崇敬者の参拝絶える事なく、春秋の大祭日は、山車、催物等、殷賑を極めたといわれて居ります。しかし、不幸にして、さきの戦災により、寿像と公孫樹とを除き、社殿は灰燼に帰してしまいました。英雄とこしえにまつられる本営の仮神殿の現況を見るに忍びず、町内氏子、崇敬者相寄り、昭和36年10月、東照宮復興奉賛会を創立いたしました。その後、いくたの障害もありましたが、昭和44年8月17日壮麗なる社殿並びに社務所が落成し、それと前後して、防火壁、玉垣等、境内の整備もなされました。更に、昭和48年5月17日に水舎が完成して、現在の姿に復興するにいたりました。江戸八百八町の開設者であり、東京都の大恩人である家康公をまつる本営が復興なりましたことを心から喜ぶと共に、今後、本営が一層多くの人々の崇敬の的になることを祈願するものであります。東照宮復興奉賛会名誉会長徳川恒孝、会長渡辺八左衛門、宮司滝孝作、総務石井正一郎』
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下の絵図では現在の東照宮の位置に飯倉茅天神があります。飯倉茅天神(茅野天満宮)は松野天満宮と共に近くの幸稲荷神社(東京で最も古い神社の一つと云われています)へ遷されています。
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神木の大イチョウは寛永8年(1641)安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光公が植樹したと伝えられます。
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芝東照宮のイチョウ(東京都指定天然記念物・昭和31年8月21日)…『芝東照宮は、以前は増上寺安国殿と呼ばれ、「江戸名所図会」にもその姿が見られる。明治の神仏分離によって増上寺から切り離され、東照宮となった。このイチョウは、寛永18年(1641)安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝えられている。昭和5年(1930)に史蹟名勝天然紀念物保存法に基づいて国の天然紀年物第二類(地方的なもの)として指定されたが、昭和27年に文化財保護法が改正された時、国指定は一旦解除され、その後昭和31年に東京都の文化財保護条例に基づき指定し直され現在に至っている。平成5年(1993)の調査では、高さ21.5m、目通り幹囲約6.5m、根元の周囲が約8.3mある。平成14年3月29日東京都教育委員会』
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神樹碑…『惟銀杏樹 經幾星霜 不折不撓 固有禎祥 幹大鬱欝 枝榮蒼蒼 勿翦勿伐 以比甘棠 明治16年10月再修』
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銀世界の梅…『この梅林は、江戸時代に「梅屋敷銀世界」として、新宿角筈(現西新宿三丁目東京ガス敷地)にあった梅に由来します。明治41年~42年ごろ16号地グランド西側に移植されましたが、道路拡張にともない、昭和41年にこの1号地に移されました。銀世界の梅は、当時梅屋敷に咲く白梅のようすからその名がつけられ、市民に親しまれていたといいます。』
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方位石。
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日光東照宮四百年式年大祭奉祝記念事業ご奉賛のお願い…平成27年に御祭神徳川家康公御奉祀四百年を迎えるにあたり、御本社の大修理、霊園の設置、祖霊社の建立などが執行されるようです。
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星野高士句碑。
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「人にまだ触れざる風や朝桜」、「長編の虚子の一書を読始」、「法師蝉鳴いてゐる木とすぐわかる」。
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星野高士句碑建立記念俳句碑。
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献句碑。
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武田竹塘先生紀功碑(明治14年)。
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