徳川将軍家墓所に向かいます。
見えてきたのは鋳抜門。
増上寺鋳抜門標柱より…『増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かつては2代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と6代家宣・7代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和20年3月の東京大空襲によりその大半が焼失した。昭和33年に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一角にまとめられた。向って左から文殊・虚空蔵・地蔵・普賢の4体の菩薩像は、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔てて東側にあった観音山に西向きに安置された観音像とともに向き合って街道を見下ろす形をとっていました。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉2年(1258)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれています。』…鋳抜門の説明ではない(笑)
鋳抜門。
かっこいい…。
内側から。
徳川将軍家墓所…『戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。その後昭和20年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家6代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築しました。左右の扉は共に青銅製で5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。墓所には、2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14代家茂公の6人の将軍のほか、崇源院(2代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(14代家茂公正室和宮)ら5人の正室、桂昌院(3代家光公側室、5代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び3代家光公第3子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。』
墓所へ。
見上げれば東京タワーが見えます。
台徳院殿(2代秀忠公)・崇源院殿(お江の方)。
文昭院殿(6代家宣公)。
有章院殿(7代家継公)。
惇信院殿(9代家重公)。
慎徳院殿(12代家慶公)。
昭徳院殿(14代家茂公)。
静寛院宮(14代将軍御正室皇女和宮)。
合祀塔。
案内板&頂いた絵葉書より。
旧増上寺御霊屋。
台徳院(2代秀忠公)霊廟本殿内部。
文昭院(6代家宣公)霊廟拝殿内部。
文昭院(6代家宣公)霊廟相之間内部。
文昭院(6代家宣公)霊廟唐門側面。
崇源院(お江の方)霊牌所内部。
有章院(7代家継公)霊廟勅額門。
台徳院殿(2代秀忠公)霊廟惣門…『寛永9年(1632)造営。旧国宝、現国指定重要文化財。台徳院殿霊廟の表門にあたり、奥に見える勅額門から本殿、奥院へと続く。戦災による焼失を逃れた数少ない建造物。』
台徳院殿(2代秀忠公)霊廟奥院宝塔…『旧国宝。寛永9年(1632)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。奥院、八角の覆堂内部に祀られた宝塔(墓塔)。装飾美麗であり、当時の工芸美術の粋を尽くしたものであった。』
文昭院殿(6代家宣公)霊廟拝殿内部…『旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。本霊廟は増上寺北廟の南半を占めていた。二天門から勅額門、中門を抜け、渡廊を進むと、霊廟主要部である拝殿、相之間、本殿へ至る。』
文昭院殿(6代家宣公)霊廟左右廊内部…『旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。第三の門である中門の左右に続く廊内部。中門の内に、拝殿・相之間・本殿より成る権現造の御霊屋(霊廟主要部)があった。』
文昭院殿(6代家宣公)霊廟奥院中門…『旧国宝。正徳3年(1713)造営。左奥から文昭院殿中門(現存、現増上寺御霊屋入口)、右手前が慎徳院殿(12代家慶公)中門。これより手前に昭徳院殿(14代家茂公)・静寛院宮(家茂公御正室和宮様)中門と続く。』
文昭院殿(6代家宣公)霊廟鐘楼…『旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。勅額門から中門に至る参道の右に鐘楼、左に水盤舎が相対し配されていた。桁行3間(約5.5m)、梁間2間(約3.6m)。入母屋造、銅瓦葺。』
文昭院殿(6代家宣公)霊廟奥院唐門…『旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。本殿横の仕切り門を出て西進すると、奥院前の石段へ至る。奥院は唐門・拝殿、一段上がって中門(現存)・宝塔(現存)が一直線に配されていた。』
有章院殿(7代家継公)霊廟中門・左右廊内部…『旧国宝。享保2年(1717)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。有章院殿霊廟主要部(拝殿・相之間・本殿)の入り口である、中門・左右廊内部より勅額門を望んだ写真。』
有章院殿(7代家継公)霊廟勅額門…『旧国宝。享保2年(1717)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。勅額門左右の外透塀は、霊廟主要部の左右廊に至るまで百七間(約195m)に及ぶ。外透塀奥には門内右手にある鐘楼が見える。』
有章院殿(7代家継公)霊廟水盤舎及び井戸屋形…『国宝。享保2年(1717)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。本霊廟は増上寺北廟に、文昭院殿廟と並んで造営された。勅額門に入ると右に鐘楼、相対して左に水盤舎(写真左)、井戸屋形(写真右)があった。』
大日本東京芝三縁山増上寺境内全図。
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