乳井通(碇ヶ関通)が北東から南西にと縦断しています。また東への山形道、西への猿賀道も交差。集落は十字路を中心に四方へ広がりました。
おく富士。
人気の大十食堂。
明治33年創業。
南の乳井通東側(栄松)には貞享年間に猿賀代官所がありました。宝暦5年再建。貞享年間には近江商人が来住して、商店、質屋、油絞業などの商業・加工業が発展していったといいます。
猿賀組代官役所跡…『貞享の検地に伴い津軽郡を新たに25組に分区して各組に代官所を設置した。但し、猿賀組、木造組、油川組は宝暦5年6月(1755)に設置された。猿賀遣(後に組)には寛文元年(1661)既に在地代官が在職していた。貞享4年5月代官制を改正した。猿賀組代官所は明治5年7月に廃止された。』
立派な建物が点在しております。
味の香園。昭和23年創業の老舗蕎麦店。
おぐら食堂。
味助。
かなや食堂。
高木一里塚。昭和55年に高木遺跡の発掘調査が行なわれ、奈良初期から平安中期の遺構が発見。明治19年の追分石があり「右あせいし道 北左くろいし 南猿賀山道」とあります。
新屋町一里塚ガンド橋跡。追分石には「左 猿賀道 猿賀神社 右青森道」
乳井福王寺玄蕃が殺害されたガンドウ橋跡。
金屋の追分石。
尾上の追分石は現在、金屋、李平、新屋町と中佐渡、高木、猿賀に残っているそう。これはその内の一つですね。最古のものは明和3年(1766)のもので、「右浅瀬石 左黒石通」とあり、高木と尾上の境界にある旧浅瀬石道と黒石造道の分岐点に建っていたものらしいです。
津軽尾上駅。
駅周辺。
岩木山が見えます。
一服庵。
平川市中佐渡鎌田付近にあった神社。元中佐渡馬頭観音堂・保食神社(御祭神保食神。現在は猿賀神社の相殿として合祀されており、猿賀神社の遙拝所として残されています)。
中佐渡の馬頭観音堂は猿賀深砂宮の摂社として明治6年まで存続していました。猿賀村大字中佐渡の神社の側にあった一本杉は田道将軍が駒をつないだ杉と称されています。大正15年発行の青森県大観51号によりますと、樹齢凡そ八百年、根元直径九尺、高さ十間でしたが、落雷のために折れたそうです。年々枯れ枝が落下して危険であったことから昭和34年に伐採。この杉の下に小祠があり、田道将軍の駒つなぎの一本杉の神話により一社を建立し、田道の駒を祀ったのがこの小祠であり、馬頭観音堂と考えられています。明治3年の神仏分離令により保食神社となり、仏体・仏具・仏号等は一切除去。同年、中佐渡村では猿賀神社社家長からの通告で、馬頭観音像を小田桐半三郎家邸内に移し、一本杉下の御堂は名実ともに廃社となるも、中佐渡村ではこの跡地に小祠を建てて年々祭事を行い、更に明治6年の神社改正による一村一社制により保食神社は猿賀神社の摂社を解かれ、中佐渡村の村社となりましたが、明治42年に再び県社猿賀神社に合祀。以後跡地は猿賀神社遙拝所として存続し、一時小田桐半三郎家邸内に移された馬頭観音の御神体をここに戻して現在に至っています。
尾崎組代官所跡。
新屋村にあった代官所が寛永4年の火災によって柏木町村に移転し尾崎組代官所となります。ちなみに元禄3年当時に尾崎組に属していた村は、尾崎、石上、原田、大坊、岩館、小杉、石畑、四ツ屋、柏木、沖館、新館、町居、広舟、新屋、唐竹、小国、切明の17か村で、代官は工藤嘉左衛門と比留間伴左衛門。
土地勘がないのであまり見つけることができませんでしたが、平川市にはこのように代官所跡などが他にも残されていそうですね。痕跡こそありませんが、館跡と同様にちゃんとした案内板が設置されているので回ってみるのも面白いかも知れませんね。
関連記事:『山神社(深砂宮・大山祗神社・平川市金屋)』
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