
『堀越城跡 2016 ~ 其之壱』より。

二之丸虎口跡へ。

二之丸虎口跡。

『二之丸虎口は二ノ丸の西側中央に位置し、西側に位置する小丸と土橋でつながっています。調査により、現在の園路の約1.5m下から、城に伴う時期の土橋が確認されました。この土橋は幅約3mで、南側で犬走りにつながります。犬走りは土塁外側に作られた幅約4mの通路で、南へ延びたのち土塁に突き当り、長さ約10m、幅約5mの広場状に広がります。犬走りの南側の土塁は屈曲しており、平場側の角が約1.8mの幅で開口しています。後世の掘削などにより痕跡は明確ではありませんでしたが、門などが設置されていた可能性もあります。外堀は廃城時に大量の木製品が廃棄されたのち埋没が進みました。整備では埋土を除去し、復元を行いましたが、宅地が近接している西側では、本来の幅より狭い形状で整備しています。』


虎口の調査状況(平成24年度)。

虎口南側の土塁と外堀(平成20年度)。

二之丸南側の土塁と外堀(平成20年度)。

南側外堀での木製品出土状況(平成20年度)。

虎口発掘調査平面図。

虎口整備平面図。

外堀から出土した遺物…漆椀、曲物、折敷、下駄、縄、頭骨。






本丸へ向かいます。


本丸から二ノ丸方面。

土橋・本丸西門跡。

本丸跡付近。

『本丸は堀越城の中央やや西側に位置しています。平面形は五角形を呈しており、高さ約3mの土塁と、幅15~20mの内堀に囲まれています。東西両側に出入口(虎口)があり、門の跡が確認されています。本丸東門は3棟の建物で構成された、幅32.5mの規模を有する大型の建物で、内堀を隔てた三之丸との間には木橋が架かっていました。本丸西門は幅2.4mで、一対の石の基礎(礎石)と二対の柱穴で構成されています。二之丸との間には土橋が架かっていました。本丸の北側からは、城内で最も大きな建物跡が確認されています。「広間」と称されるこの建物は、城主が家臣や使者と謁見する公的な場であり、城内で最も格式の高い建物であったと想定されています。なお、広間南側からは庭と想定される痕跡も確認されています。本丸内には、広間の他にも、城主の私的な(奥向きの)場である「居間」「台所」「長局(大奥)」などの建物が建ち並び、本丸御殿を形成していたと考えられていますが、これまでの発掘調査で全容が明らかとなったのは広間のみです。奥向きの建物群は、本丸の南西側から南側(現在の熊野宮境内)に位置していたものと思われます。現在、本丸を取り囲んでいる土塁・内堀のかたちや、東西の門、本丸御殿広間などの建物は、弘前藩初代藩主の津軽為信が、大浦城から堀越城へと本拠を移転した文禄3年(1594)に形成されたものと考えられています。なお、建物については、慶長16年(1611)に二代藩主の信枚が弘前城へと本拠を移転した際に、取り壊されたようです。』

堀越城跡地域復元図。

本丸発掘調査平面図。

本丸整備平面図。

本丸遺構表示平面図。

本丸建物跡想像図(南東から)。

本丸御殿広間跡。


『本丸御殿広間跡は堀越城の中心的な建物です。城内で最も大きく、また、城主の公的な謁見の間として最高の格式を有する建物でした。この建物の主屋は、東西20.0m(10間)、南北14.0m(7間)の規模を有し、北側と東側に付属屋(下屋)が取り付きます。基礎には直径0.6m前後の川原石(礎石)が使われています。主屋の南東側には東西5.7m(3間)、南北5.0m(3間)の掘立柱建物が取り付きます。これは中門と称される建物で、ここから家臣などが出入りしました。なお、藩主より身分の高い人は、塀に付属する門をくぐり、車寄せと称される部分から広間に直接出入りしたようです。建物跡から遺物はほとんど出土していませんが、周辺の地面(整地層)からは16世紀後半の陶磁器や鉄砲玉などが出土しています。』

本丸御殿広間跡想像図(南から)。

本丸御殿広間跡遺構表示平面図。

本丸御殿広間跡発掘調査平面図。

主屋の礎石、中門の掘立柱、中国産赤絵皿、鉄砲玉、越前産陶器擂鉢。

展望デッキへ。説明はまだ設置されていません。

展望デッキから内堀。

展望デッキから二ノ丸(二之丸虎口)と岩木山。

展望デッキから本丸。

本丸跡の熊野宮。


コメント