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仮説総合説明板【弘前藩初代藩主 津軽為信 最後の居城 国指定史跡 津軽氏城跡 堀越城跡】より…『堀越城は、戦国時代末期、のちの弘前藩初代藩主津軽為信により、津軽統治の拠点として整備されました。昭和60年(1985)に国指定史跡となり、平成10年から平成25年(1998-2013)まで発掘調査を行っています。この成果を踏まえて、平成24年(2012)から史跡公園として公開するための整備工事が本格化しており、平成31年度(2020年3月)の完成に向けて、現在も工事を実施中です。400年間の時を経ても未だ城郭のおもむきを忍ばせる堀越城跡と、往時の姿を取り戻しつつある堀越城跡の、両方の城跡を是非ご見学ください。』
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堀越城跡(平成24年撮影)。
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津軽為信木像。県重宝。長勝寺蔵。
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木造豊太閤坐像(豊臣秀吉)。弘前市指定有形文化財。革秀寺蔵。
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堀越城と津軽為信…『古い文献に初めて「堀越」の名が現れるのは、南北朝時代の建武4年(1337)のことで、文書には「堀越に楯(館)を築く」とあります。しかし、この「楯」の様子については、はっきりしていません。堀越が再び文書に現れるのは、16世紀後半、「南部右京亮(うきょうのすけ)」為信、後の津軽為信が、当時津軽を支配していた南部氏から独立を図る過程においてです。享保16年(1731)弘前藩によって編さんされた「津軽一統志」によると、元亀2年(1571)、為信は堀越城から石川城主の南部高信を奇襲し、攻め落としたとされます。この頃から、為信による津軽切り取りが開始されたようです。その後、為信は大光寺城や浅瀬石城など、敵対勢力の城を攻め落として津軽の支配を進め、天正19年(1591)頃までには、豊臣秀吉から大名として認められたようです。文禄3年(1594)、為信は現在の弘前市賀田にある大浦城から堀越城へと本拠を移転します。その後、為信の跡目を継いだ2代信枚が高岡城(のちの弘前城)へと本拠を移転する慶長16年(1611)までの17年間、堀越城は津軽氏の居城、すなわち津軽の中心地として栄えました。弘前城への移転のあと廃城となった堀越城は、熊野宮や畑、水田などへ転用されたものの、為信ゆかりの古城として、現代に受け継がれてきました。』
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堀越城跡整備平面図。
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城内の様相…『過去の発掘調査から、現在残る堀越城の形は、津軽為信が文禄3年(1594)に行なった大改修によって築かれたものと考えられています。城の中心には城主の住む本丸があり、その周囲を家臣などが住む二之丸、三之丸、外構などの曲輪が取り囲んでいます。発掘調査では、本丸からは礎石建物、二之丸・三之丸からは掘立柱建物などが発見されており、城内に多くの建物が建ち並んでいたこともわかりました。また、二之丸ではたくさんの鍛冶炉が並んで見つかっていることから、城内には武士だけでなく鉄や銅の製品をつくる職人もいたようです。堀越城は、のちに築かれた弘前城と比べると4分の1ほどの規模で、石垣や天守もありません。しかし、城内の各所には、敵の攻撃を防ぐための様々な工夫がなされています。このお城で為信が試行錯誤したことが、のちの弘前城築城に活かされているのかもしれません。』
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堀越城跡城域復元図。
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史跡津軽氏城跡と周辺の文化財…『史跡津軽氏城跡は、種里城跡(西津軽郡鰺ヶ沢町)、堀越城跡、弘前城跡から成り、弘前城跡はさらに弘前城・長勝寺構・新寺構から成ります。周辺の城跡や建造物などの文化財と併せて、是非訪れてみてください。』
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堀越城跡整備イメージ図。
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かなり綺麗に整備されましたね。平成31年度の完成なのでまだまだ変わっていくのでしょうね。
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三之丸(西)付近。
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説明はまだ設置されていませんでした。
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三之丸から内堀。
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三之丸(外堀、土塁)。
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外構。
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北の曲輪(仮称)。
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三之丸から本丸東門跡にかかる木橋。
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木橋上から内堀。
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本丸東門跡。
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『本丸東門跡は南北に並ぶ3棟の礎石建物で構成されており、全体で南北32.5mの規模となります。中央建物は南北10.3m(3間)、東西2.7m(1間)、2階建の櫓門であったと考えられます。1階中央に幅4.2mの門扉が取り付き、門内部には長さ10.3mの長大な梁が架かっていました。礎石も1.0mを超える大きな石が使用されています。なお、外側の堀からは木橋跡、内側からは蕃塀(目隠し塀)が確認されています。南建物は南北12.9m(6間)、東西6.4(3間)の1階建で、倉庫などに使用されたようです。北建物は6m(3間)四方の建物で、内部は床張りとなるようです。階数が1階建または2階建のいずれとなるかは、はっきりしていませんが、1階部分は門番の詰所だったようです。』
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蕃塀(目隠し塀)跡。
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東門跡から本丸跡。
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東門跡から熊野宮本殿。
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本丸東門跡想像図(北建物2階建案、南から)。
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本丸東門跡立面図(北建物2階建案、東から)、本丸東門跡立面図(北建物1階建案、東から)、本丸東門跡遺構表示平面図。
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本丸東門跡発掘調査平面図、中央建物の礎石、本丸東門跡全景写真(西から)。
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二之丸へ。
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二之丸付近。
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二之丸土橋上から内堀。
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二之丸から本丸方面。
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整備前(北東から、平成23年度)。
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南側土塁調査風景(平成21年度)。
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西側外堀・土塁調査風景(平成20年度)。
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西側・北側土塁整備風景(平成26年度)。
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西側外堀整備風景(平成26年度)。
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整備後(北東から、平成27年度)。
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堀越城跡城域復元図。
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『二之丸は堀越城の北西側に位置しています。平面形は、南北120m、東西40~50m前後の、南北に長い弓なりの長方形を呈しています。逆コの字状の土塁により、北・西・南の三方が取り囲まれており、さらにその外側が外堀で囲まれています。西側中央に位置する虎口(出入口)で小丸と、南東側の本丸とは土橋でつながっています。整備前には、土塁は南西側の一部を除いて高さ1m程度まで削られていたほか、西側の外堀は完全に埋められていました。今回の整備で、土塁は残存する基底部の幅やのり面の傾斜角度、本丸に残る土塁などから推定し、外堀底面から約6~7m、平場から約3mの高さで復元しています。また、外堀は主に明治時代以降の埋め土を除去し、可能な限り深さを復元しました。外堀は南北両側で約20mの幅を有しますが、西側は宅地が近接するため幅が狭い形状で整備されています。土塁や外堀は、津軽為信が大浦城から堀越城へと本拠を移転した文禄3年(1594)に形成されたものと考えられます。また、平場からはこの時期の遺構として、掘立柱建物跡、竪穴建物跡、焼土遺構、柱列跡などが確認されています。平場の南側からは南北8間、東西3間の掘立柱建物跡が確認されているほか、中央では数棟の掘立柱建物跡が存在したものと想定されます。北側では20基前後の鍛冶炉と想定される焼土遺構や、竪穴建物跡1棟などが確認されています。なお、曲輪の名称である「二之丸」は、江戸時代の文献に記されていた呼称ですが、城として機能していた当時、どのように呼称されていたかは定かでありません。』
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二之丸整備平面図。
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二之丸発掘調査平面図。
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掘立柱建物跡。
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『この地点からは南北8間(約14.7m)、東西3間(約5.8m)の掘立柱建物跡が確認されています。柱が格子状に配置された総柱建物であることから、重い物を収納する倉庫などであった可能性があります。また、二之丸虎口と本丸西虎口の中間に位置し、土塁の軸線とも一致することから、視界や動線を遮断する防御的な機能も有していた可能性があります。平場北側からは鍛冶炉と推定される焼土遺構が20基前後確認されたほか、竪穴建物跡、塀跡などが確認されました。さらに、周辺からはコメ・ソバ・オオムギ・アワ・ヒエなどの炭化種実も大量に出土しています。これらの調査成果から、二之丸については、倉庫や鍛冶炉など、主に貯蔵や生産に関わる施設が配置された曲輪であったと想定されます。』
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掘立柱建物跡発掘調査平面図。
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掘立柱建物跡整備平面図。
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炭化種実と焼土遺構(平成21年度)。
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平場北側の柱穴検出状況(平成11年度)。
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竪穴建物跡(平成21年度)。
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柱列跡(塀跡、平成12年度)。
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並列する焼土遺構(平成21年度)。
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掘立柱建物跡(平成12年度)。
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二之丸平場発掘調査平面図。
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堀越城跡 2016 其之弐』へ続く。
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