イメージ 11
再訪です。
イメージ 12
イメージ 13
イメージ 14
イメージ 15
堂標(大正元年8月17日)。
イメージ 16
元和9年(1623)頃、十一面観音堂と呼ばれていましたが、その後観音堂となり、明治5年の神仏整理で末社もみな廃堂となり解体。復活再建年は不明ですが、石仏の近くに明治40年建立の石燈籠(現存せず)があったことからそれ以前の復活と考えられています。なお、昭和初期の鳥居が三基あったそうですが現存していません。
イメージ 17
明治3年3月の神仏混淆神社調査に長利帯刀社司は「八幡宮と末社神明宮は残し、観音菩薩堂は明神宮に改称し、末社も祇園宮(牛頭天王堂)と稲荷宮として残す」と報告されています。
イメージ 18
末社。
イメージ 19
地蔵堂。
イメージ 20
大変綺麗に祀られており崇敬の篤さを伺えます。バナナは真っ黒だったけど。
イメージ 21
新しい石燈籠一対。台座は古いものです。
イメージ 9
イメージ 10
社殿前にかつての石燈籠と思わしきものがありました。
イメージ 8
石仏。
イメージ 7
聖観世音。
イメージ 6
板碑三基。右は元水入りの寺屋敷跡にあったもの。種子アク。嘉元の頃のもの。中央は西信逆修の板碑。種子アー。左は八幡館の阿部氏の敷石となっていたもの。種子不明。
イメージ 5
入口にある板碑一基。種子アー。「右志者為高慈父十三年徳治二年九月日」と見えます。西信が父の13年忌に追善供養した板碑と考えられています。
イメージ 4
板碑の裏側に倒れて放置されているいくつかの石には、色々と文字が彫られていましたが、すべで破損しているため何なのかは不明です。
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 3
イメージ 2