
太田神社は太田地区コミュニティ消防センター隣。太田地区コミュニティ消防センター前にある太田村役場跡の碑と歴代村長名の碑。

太田ふるさと案内板「合戦踊り」…『由来は坂上田村麻呂の軍勢に住民が参加して勝利したが、戦いの様子を合戦踊りとして伝承している。前掛に光るものを刷り、鳴物を手に持って突入の仕草、後退の仕草、攻めの体勢、戦勝の喜びを横笛、太鼓の響きで、一番から五番まで舞う構成となっている。姥宿の稼踊りは岩崎一揆の際、和賀、稗貫の残党を討ち滅ぼした南部軍の祝宴に踊ったのが始まりと言われている。現在はどちらも小正月の豊作を祈る目出たい踊りである。』

太田村は中世末から近世初頭にかけて和賀一族須々孫氏から分かれた太田氏が当地を領有。

岩手県神道青年会HPによりますと御祭神は豊受姫命、大山祇命。由緒によりますと稲倉魂命もかな。



建久2年(1191)鎌倉の住人土屋木兵衛氏が稲倉魂命の分霊を奉安。神霊の御前に火を起こし日夜消ゆる事無くして当村に来て、姥沢に堂宇を建設、神霊を安鎮・祈願し当地を開墾。

その後、慶長3年(1598)当村中里へ移転し、明治初年に村社中里稲荷神社に列格。大正2年(1913)11月14日、村社山祇神社と村社中里稲荷神社と合併、村社太田神社に列格。

拝殿。


本殿。

太田ふるさと案内板「太田神社」…『鎌倉の住人、土屋木兵衛が建久3年(1191)火を絶さぬようにしながら稲倉魂命の分霊を奉安して、当村に来て姥沢に堂を建て、尊信したのが始まりである。慶長2年(1597)故あって中里に移転したが、明治の末期再びもとの姥沢に移り、太田柴林にあった山祇神社を合併し、大正2年に太田神社と名稱変更した。その事により今までの地域の争いが無くなったと言う。古老は太田神社は、3つの神社を一つにしたと言っている。祭神:豊受姫命・大山祇命(太田八景)。太田ふるさと会』

土俵。

石祠。


忠魂碑。

神楽殿。

三社託宣(大正8年)などの碑。この前で太田神楽が奉納されるようです。

太田ふるさと案内板「太田神楽」…『早池峰神楽岳系の神楽として、轟木神楽と交流をはかり、成田神楽の流れを受けながら「宮古路神楽」として伝承されてきたが、後継者不足から活動を中断していた。昭和27年、更木神楽を師匠に太田神社に奉納し、太田神楽と命名され伝承が継続されてきた。平成に入り団員の減少で活動が低迷し、一時中断されたが、復活を望む地区民の強い願いから、平成14年、地区内有志の参加により、復活した。』

太田神社の境内から少し下がった場所へ。由緒に関連するかのような美しい三叉水路。

急な石段があります。

その上にもう一つの建物。

よく見えませんが「子安地蔵尊」かな。

中には子安観音が祀られていました。


子安地蔵尊堂の隣に庚申塔(左)と薬師如来(右)。

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