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三笠山公園に向かってみました。
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道中にはこのような看板がたくさん。たけのこマラソン大会のコースになっているようです。
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山に囲まれた古い温泉郷として親しまれている碇ヶ関を全貌できる小高い山。
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公園として整備されており、展望台や四阿、小道が整備されています。
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公園内の急坂を上まで登ってみましたが特に何もありませんでした。
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しかも車で行けるという…心折れる笑
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池。
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美しい公園です。
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たけのこマラソン大会のコース付近とあって、公園内にもたけのこ。
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葛西善蔵文学碑がありました。
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『椎の若葉に光あれ 親愛なる椎の若葉よ 君の光の幾部分かを 僕に恵め』
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案内板より…『明治20年1月16日弘前市に生まれ、7歳から15歳まで母の実家がある碇ヶ関に居を定める。その後上京し長い無名時代の後、大正7年、短編「子をつれて」を発表し文名を高くした。大正から昭和にかけて心境小説、私小説においてその絶頂をきわめ、最高の典型を示したといわれる。昭和3年7月23日、東京都世田谷区にて病死する。享年42歳。文学碑の「椎の若葉」は口述したもので彼の自筆の原稿はないが、碑の文字は他の作品や書簡の中から一字一字拡大し彫刻したものである。』
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案内板より…『葛西善蔵の死とともに日本の純文学が滅びたという人もいるほどで、葛西は日本文学に大きな足跡を残しており、作家の私生活を自虐的に描く私小説作家の典型とも言われている。作家としては寡作であったが、一つ一つの作品と一字一句には精魂を傾け、三笠山公園の中腹にある葛西善蔵文学碑の文章も、そうした精魂を傾けたものであり、小説「椎の若葉」の末尾「…人間墳墓の地を忘れてはならない。椎の若葉に光あれ、僕は何処に光と熱とを求めてさまようべきなんだろうか。吾輩の葉は、最早朽ちかけているのだが、親愛なる椎の若葉よ、君の光りの幾部分かを僕に恵め。」から抄出されたものである。善蔵は達筆家でもあり、文学碑の文学は僅かに残っていた「湖畔手記」の原稿から、一字一句を拾い出して組み合わせたものである。「子をつれて」を発表して、文壇界に認められてから「呪われた手」「馬糞石」「朝詣り」「椎の若葉」や代表作である「湖畔手記」「醉狂者の独白」など60あまりの作品を発表し42歳でこの世を去っている。「呪われた手」や「馬糞石」などでは、郷里碇ケ関が舞台である。文学碑が三笠山公園に建てられたのも、善蔵が碇ケ関行きの切符を欲しながら没したと言われるほどに、こよなく愛し続けた碇ケ関村の全景が永久に見渡せるようにとの願いからでもある。葛西善蔵は、明治20年1月16日弘前市に生まれ、後に碇ケ関村に居を定む。青雲の志止め難く年少にして上京し、東洋大学および早稲田大学に学び、徳田秋声の門に入る。大正7年短編小説「子をつれて」を発表し、一躍文名が上がる。その作風は峻厳にして苛烈、日本文壇に類稀なるものとして渇仰され、貧窮と病苦との中にあって、郷里碇ケ関へ熱望やみがたく、昭和3年7月23日東京世田谷にて病死す。享年42歳』
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公園横にある三笠山配水場。
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