
天台寺門宗。奥州三十三所観音霊場、当国三十三所観音霊場(和賀・稗貫・紫波三郡)第1番札所。

西国三十三所の京都清水寺、播州清水寺に並ぶ日本三清水の一つ。


大同2年(807)征夷大将軍坂上田村麻呂公の勧請により創建。前九年の役の際、源頼義・義家親子が清水観音に祈願して安倍氏を撃破、康平5年(1062)に7間4面の伽藍を建立したとの伝承あり。天正19年の九戸政実の乱では豊臣秀次麾下の軍兵が清水観音に戦勝祈願したとの伝承あり。天和3年(1683)・享保7年(1732)・文化10年(1813)と観音堂の改築が行われており、現在の観音堂は文化10年(1813)の建築で、昔の浅草観音のお堂を模したと言われています。

当寺の元宮は現在地の西方約8㎞に位置する八方山(標高716m)にあったと伝えられますが、八方山に遺跡等は残っておらず移転の経緯については不明。遺構ではありませんが、山頂には石祠と清水観世音堂之跡と記した石柱があるそうです。

境内地周辺には、清水町、反町、宮小路などの地名が残り、かつて当地方の信仰の中心として物資の供給地として賑わったことが窺えます。慶長年間(1596-1615)に南部藩の重臣花巻城代の北松斉公が当寺周辺にあった市場を現在の花巻市街地に遷し花巻開町の礎としたと言われます。


御神馬堂。


御神馬

手水舎。

狛犬一対。




山門。

仁王像。


美しい造りです。





階段がついており、2階へ上がることができます。嬉しいですね(高所恐怖症の人以外は…)。

2階には当国三十三札所の観音像が安置(昭和2年11月6日、再建に併せて安座式)されています。

『昭和2年に建立された清水山門(仁王門)は、当時の建築物としては、すばらしい山門だといわれております。この棲上に当国三十三札所の観音像を安置してあります。藩政時代南部領、和賀、稗貫、紫波の三郡に三十三の札所を配置し札所巡りが行われ現在も当国三十三札所として多くの人達が巡拝をしております。札所巡りは1ヶ所1ヶ所参拝して歩くのが本来であるが都合で参拝できかねる場合、1ヶ所で全部参拝できるようにと山門建立の時に楼上に安置したものであります。尚回廊の上に素彫りの十二支があるがこれは方角を示すものである。』

っていうか…高所恐怖症なのでかなり怖い…

…けど、頑張って十二支を撮ってみました。












山門から見下ろした清水寺観音堂。

山門から降りて観音堂へ。

向拝。



鰐口。


額束には「清水護寺」とあります。40代盛岡藩主南部利剛公の書。

堂内。



眩しいほど金ぴかの十一面観音様。

この裏に御本尊があるそうですが、秘仏のため御開帳の時以外は拝観できません。ちなみに最後の御開帳は昭和3年ですって。

案内板。

懸仏薬師如来坐像(像高8cm・鋳銅製)…『花巻市指定有形文化財(彫刻)指定年月日昭和54年3月10日。懸仏は、丸い鏡板に囲まれた神仏の像を吊り懸けて信仰するもので、もともとは銅鏡に線刻される「鏡像」が、次第に立体化することで成立しました。多くは神仏習合による本尊として祀られ、鎌倉時代から「御正体」という呼称で各地に広がり、江戸時代にも多く製作されていましたが、明治初期の神仏分離令によって、その大部分が失われたと考えられています。この像は、別体の鏡板に取り付けられる形式のもので、左膝の上に置かれた手に薬壺を持つ姿から、薬師如来と見られています。如来本体と蓮座が丸みを帯びて一体化した形態から、製作時期は室町時代初期と推定されていますが、薬師如来像のみが伝えられ、鏡板は失われています。』

音羽山清水寺観世音由緒『当山は大同2年征夷大将軍坂上田村麻呂の草創で京都、播磨の清水と共に日本三清水と称し昔より広くその名を知られたる古刹にして奥州三十三観音の一つと伝えられ現在は音羽山清水寺と号し天台寺門宗(三井寺派)である。延暦年中将軍詔を奉じこの地に蝦夷を討ったが、賊勢勇猛で苦戦の為持佛の観音を兜より取出し祈願した処観音の加被力により平定することが出来た凱旋後戦捷を奏聞し宣撫と菩提の為に一宇を建立し閻浮檀金の一寸八分の十一面観音を安置して鎮護国家の霊場とした。その後慈覚大師東国へ下向教化の際橡の木で七尺余の観音像を彫刻してその胸中に収め奉ったと伝えられている。和賀、稗貫、紫波三十三補陀落第一番の札所である。毎年陰暦6月27日、7月10日、27日を例祭としていたが、近年より陽暦7月27日、8月10日、27日に改め何れも前日が宵宮で8月9日の宵宮は盛んである。尚、毎月17日は観世音の御縁日でとくに3月と9月には護摩をたく。』

太田ふるさと案内板より「清水寺と祭日」…『祭日は3回あって、一番賑うのは旧暦7月9・10日(現在は8月9・10日)である。古くは近隣、遠くは仙台、三陸沿岸からも多勢の参詣人があって、名高かった。これをあて込んで、境内にはすき間ない程に大小の出店が立ち並んだ。衣服・器物・雑貨品などの売買が盛んに行なわれた。昔は、観音堂に相次いで、反町・宮古路などにも市場があり、後に慶長年間に北松斉の下知(指示)によって、花巻へこれが移されたという。』


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