
鳥居は一つですが2つの神社が鎮座しております。

正面には浪除稲荷大明神。


右の石畳を進み…

更に鳥居があり…

於咲稲荷大明神。


御祭神は倉稲魂命。

力石が3つあります。

いずれも「さし石」と刻まれています。内一つには「佃大市」「佃辰」「佃清」「吉松」の名も残します。さし石の「さし」とは「持ち上げる」こと。材質は安山岩。


石燈籠。

手水舎。

えぇ~…っと…木!!

裏手の水路越しに本殿と御神木。

佃散策。

船が沈んでる?!(笑)

水路の真ん中に何やら看板が。

『此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋没されておりますので立入ったり掘り起こしたりしないで下さい。佃住吉講』

一般人には立ち入ることも掘り起こすことも不可能でございます。

何やらガラス張りの建物が見えてきました。

佃まちかど展示館。

『まちかど展示館は、地域に根づいたまちの歴史や記録を区民等が自ら掘り起こし、展示や公開することで、地域文化の継承や住むまちに誇りや愛着心を育んでいただくため、区が認定し町会等や区内の事業所等が設置しているものです。佃島は、摂津国西成郡(現在の大阪市西淀川区)佃村・大和田村の漁師たちが、大川(隅田川)河口付近の干潟百間四方を拝領し、正保元年(1644年)に埋め立て造成した島です。故郷の名をとり佃島と名づけられました。漁師たちは、移住以来徳川将軍へ日々鮮魚を献じていました。特に白魚は将軍の食膳に不可欠なものだったといい、今も佃島漁業組合に白魚献上箱が伝えられています。また、住吉神社は正保3年(1646年)に大阪の住吉神社の分霊を移したもので佃から月島一帯の氏神となっています。3年に1度の大祭には、神輿が繰り出し月島地域が沸きかえります。佃まちかど展示館には、こうした佃島の歴史や伝統を象徴する千貫神輿や区民文化財である龍虎の獅子頭、佃例大祭の写真などを展示しています。また、この他にもたくさんの貴重な文化資源が残されています。』


『この龍虎の頭は制作年代不詳にして最も古きものなり。既に天保初年発行の「東都歳時記」夏の條に「六月廿八、九日佃島住吉明神祭礼龍虎の頭を渡す云々」とあるは之れにして江戸時代佃島は幾多の火災に罹り全島焼土と化したる事もあれと何時もこの龍虎の頭は不思議にも其の災いをまぬかれたり。大正十年頃迄は大祭の時に此の頭を渡せしが大獅子頭新造以来之れを渡さず。尚大祭の時は此の場所に庭を造り飾る事古例なり。佃住吉講』

展示館の裏手は隅田川。


佃島渡船跡。



摂津国佃村の漁民が徳川家康に従い江戸に入り、佃島を築造した正保2年(1644)より続いていた佃の渡しは、昭和39年の佃大橋架橋に伴い320年間に及ぶ長き歴史に幕を閉じました。

安政6年(1859)創業の「つくだに丸久」横にある劇作家北條秀司(1902-1996・大阪市生)の「佃の渡し」記念碑。


『雪降れば 佃は古き 江戸の島』。

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