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2014年、国史跡「津軽氏城跡弘前城跡新寺構」のうち、桶屋町の南溜池土居(堤防)跡に遊歩道(4336万円。約175m。看板3基・ベンチ6基。)が整備されました。
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歩きやすくなりましたね。
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以前は史跡整備用地のため立入禁止でした。
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南溜池跡(弘前大学医学部グラウンド)。明治期に消滅。
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南溜池は岩木山を映す「鏡ケ池」の名で親しまていましたが、現在岩木山は少ししか見えず、景勝地とは言えません。
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反対側の方がいい景色ですね。
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ベンチはこっち向きにした方が気持ちよかったのに。
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国指定史跡弘前城跡新寺構。
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ここは特に変わらず。
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国指定史跡弘前城跡新寺構…『初代津軽藩主為信の遺徳を継いだ信枚は慶長15年(1610)の弘前城造営に続き同18年に平時は人馬の水練の場として戦時には南方の御衛隊とすることを目的に東西に長い大溜池を造っている、(現在立っている所がその溜池東端の土塁上である)眼下の野球場等がその溜池である。更に三代信義は僧京海のために正保4年(1647)溜池南東台地上に大円寺を再興し、また慶安3年(1650)には城の南方にあった15箇寺の寺院を移転させ現在の新寺町を構築し、この付近の防御を固めている。このように本市の藩政時代の遺構として貴重な所であることから、昭和27年国の史跡指定を受けたものである。昭和27年3月29日文部省指定』
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辻坂。
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以下、新しい設置看板より。
『ここは、弘前城築城後まもなく築かれた溜池の堤(土居)にあたる場所です。溜池は南溜池と呼ばれ、またの名を鏡ヶ池ともいいました。南溜池は、弘前藩の官撰史書「津軽一統志」によると、弘前城築城の3年後の慶長19年(1614)に人夫1万人を動員して築いています。南溜池は、弘前城跡から南に約600メートルに位置し、弘前城下建設のプランの中で、長勝寺構と共に弘前城の南方の防ぎょ施設として築かれたと考えられ、弘前城及び長勝寺構と共に、昭和27年3月29日に、弘前城跡として国の史跡指定を受けました。弘前市では昭和55年からは、南溜池土居の保護を図るため、公有地化し、平成25年度には整備が行われました。説明板の立つこの場所は、溜池の土居の南端にあたり、築城当初は城下町の南端でもありました。慶安3年(1650)に、溜池の南西に新寺町が新たに町割りされました。』
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新寺構土居跡整備図。
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史跡津軽氏城跡構成図。堀越城跡(昭和60年追加指定)・種里城跡(平成14年追加指定)。
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史跡津軽氏城跡位置図。※種里城跡は鯵ヶ沢町に所在。
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新寺構現況図。
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史跡津軽氏城跡弘前城跡位置図。
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『ここは、弘前城築城後まもなく築かれた溜池の堤(土居)にあたる場所です。溜池は南溜池と呼ばれ、またの名を鏡ヶ池ともいいました。南溜池は、弘前藩の官撰史書「津軽一統志」によると、弘前城築城の3年後の慶長19年(1614)に人夫1万人を動員して築いています。現存するもっとも古い城下絵図である「津軽弘前城之絵図」によると、17世紀半ばの南溜池は、南北に延びる土居が92間(165.6メートル)、東西の長さが300間(540メートル)、深さが東側で7尺から8尺(2.1~2.4メートル)、西側が3尺から4尺(0.9~1.2メートル)という規模があったようです南溜池は、弘前城跡から南に約600メートルに位置し、弘前城下建設のプランの中で、長勝寺構と共に弘前城の南方の防ぎょ施設として築かれたと考えられ、弘前城及び長勝寺構と共に、昭和27年3月29日に、弘前城跡として国の史跡指定を受けました。弘前市では昭和55年からは、南溜池土居の保護を図るため、公有地化し、平成25年度には整備が行われました。』
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『南溜池のうつりかわり…「津軽弘前城之絵図」に描かれた、寛永末期(17世紀半ば)頃の南溜池の様子は、東側と南側には町割りがなく、溜池の北側には、長勝寺構から土塁が伸びており、築城当初の防ぎょ施設としての南溜池の性格がよく表れています。慶安3年(1650)には、溜池南方に寺院街(新寺町)が置かれ、さらに溜池東側に町割りがなされると、築造当初の軍事的な役割は失われて、南溜池とその周辺の景観は大きく変貌をとげます。万治2年(1659)の城下絵図には、溜池の南西に寺院街が置かれた様子が描かれています。溜池そのものも、灌漑用水を確保するための貯水池、狩猟を禁じた殺生禁断の地、雨乞い等の祈祷の場、そして塵芥の捨場など、藩政時代を通じて、弘前城下においてさまざまな役割を果たして来ました。明治以降は、畑等に開墾するなどの開発が進み、溜池としての歴史に幕を閉じました。景勝地・憩いの場…寛政8年(1796)に弘前に来遊した菅江真澄は、南溜池について、「鏡の池」と呼ばれていることや、水が枯れて池としての景観を失っているが、橋がところどころに架けられていて風情のある場所であると記録しています。実際に、弘前藩は橋を架けたり、松と桜を土居沿いに植えるなどの景観整備を実施し、景勝の地としての南溜池を保護していました。安政年間(1854-59)の様子を描いたとされる「鏡ノ池春景図」では、土居沿いに植えられた桜と松が描かれ、岩木山の眺望と溜池の水面に映る岩木山の姿も描かれています。こうした景勝地である南溜池付近は弘前城下の住民たちにとって憩いの場であり、夏は納涼や水浴、花火などの娯楽も行われていたことが、「弘前藩庁日記」に記されています。しかし、残念ながら、景勝地としての南溜池の景観は、近年の都市化等に伴い現在は失われています。』
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寛永末期(1644頃)「津軽弘前城之絵図」(南溜池部分)(弘前市立博物館所蔵)。
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万治2年(1659)「津軽弘前古絵図」(南溜池部分)(弘前市立博物館所蔵)。
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「鏡ノ池春景図」(「蓬か島所収」)(弘前市立弘前図書館所蔵)。
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南塘の土居より西を望む(山口寿氏撮影)…昭和29年の南溜池東側の土居からの眺望。建物も少なく、岩木山の眺望が藩政時代さながらに残っていた。
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