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公開日は5~11月までの第2・4日曜日(10-16時)だって…ってことで後日再訪。
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花巻まつりと屋形山車『花巻まつりは、花巻開町の恩人北信愛(松斎)が、出陣に際し観音さまをまつり戦勝を祈願したことが始まりと伝えられています。この観音祭りは、北松斎が死去した慶長18年(1613)以降は、松斎祭りとも呼ばれ、江戸時代を通して稗貫・和賀二郡の祭りとして催されていました。明治の廃仏毀釈によって、観音祭りは一時中止されましたが、その後、鳥谷崎神社の祭礼として復活した花巻まつりは、高さ13メートルの屋形山車を擁する豪快なものになりました。この明治の屋形山車の製作は、当時の豪商たちが費用をだして、名工高橋勘次郎(2代目)や宮沢菊松が設計し、祭り師の渡辺弥四郎・高橋伝次郎・高橋喜左ヱ門たちが人形や花・波を製作したものでした。こうした屋形山車は、岩手は言うに及ばず、東北屈指の山車として名声をはせ、その担ぎ手になることは、誇りと、名誉をともない遠くからも担ぎ手として参加したものでした。大正時代になり、街に電線が張りだされると、豪壮な屋形山車は丈の低い優雅な風流山車に姿を変えました。明治期、惜しまれながら姿を消していった屋形山車、その豪快な山車が、開町400年の平成4年、高さ13メートル、総檜づくりの豪華な山車として蘇りました。』
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ドーンッ!
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ドドーンッ!
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ドドドーンッ!
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一番上に南部信直公、右下に白馬に乗った北信愛公(のちの松斎公)。
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花巻祭(明治時代の山車)。
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豊沢町の山車…『花巻祭りの山車は、明治時代にその豪華の絶頂に達した。写真は明治30年(1897)ころの豊沢町の屋形。高いだけに、下からみたとき見映えのするものにするため、格段の手を必要としたのである。花、山、波、人形と仕事が分れ、祭師によって飾りつけ、仕上げられたのである。』
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明治の山車(上町)…『明治40年(1907)ころの典型的な屋形。高さ15mもあり、総桐の豪華なこの屋形は上町に長く保存されていたが、惜しくも昭和20年(1945)8月の戦災で焼失した。屋形祭りには、江刺方面からかつぎ人夫が大勢きたものである。この高い山車をかつぐため、臼に水を一杯入れて、これをこぼさないように練習したものだといっている。』
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明治の山車(鍜冶町)…『明治40年(1907)鍜治町の山車。参加者も少なく、いでたちも地味である。正面立札には「牛若丸、矢矧の長者の命にて音曲の躰」と記されている。山車は、もともと神の依りまし給う神座のことで、これを目標として神が降りてこられるのであり、長い柱を立てるのが基本の形であり、屋形の意味であった。』
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