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「花巻城」と「盛岡藩」について。『花巻は北上平野の中心にあって、北は盛岡に、南は黒沢尻(北上)に、東は釜石地方につうじる地にある。そのため「花巻城」は「仙台藩」との藩境に近い事もあって「盛岡藩」としては重要な場所であった。康平5年(1062年)「前九年の役」(平安時代中期(1051年から1062年)奥羽地方の豪族「安倍氏」と「源頼義・義家」との戦いがあり、「安倍氏」はこの戦で敗れた。)で「安倍貞任」が北へ(厨川の柵)逃れる途中に「鶴脛の柵(城)があったと記録されている。一説では「鶴脛の柵」は稗貫郡にあって、後の「鳥谷ケ崎城(今の花巻城)」であったのではないかとも考えられているが、詳しいことはわかっていない。その後、13世紀頃から16世紀頃まで、約400年間「稗貫氏」がこの地方を治め、永禄年間(1558-1570年)に、「鳥谷ケ崎城」に本居を移したとされている。天正18年(1590年)「稗貫氏」は「豊臣秀吉」の小田原城攻め(「豊臣秀吉が天下統一のために行なった戦」)に加わらなかったため領地を没収され、翌天正19年「南部氏」の一族である「北秀愛」が稗貫・和賀地方八千石の城代となり城の名も「花巻城」と改めた。「北秀愛」の死後、父の「北信愛(後の北松斎)が城代となって花巻の発展に力を尽くし花巻開町の祖と呼ばれている。「花巻城」は、高台と川を利用した「平山城」という形式で、更に台地とつながっている西側にもお堀を巡らせた守りの堅い城であった。慶長5年(1600年)の和賀一揆の際に、「北松斎」はわずか十数名で500とも言われる敵を退けたことからも「花巻城」の堅い守りがうかがえる。「花巻城」の規模は東西約710m、南北約500mにもなり、北から「本丸」・「二の丸」・「三の丸」となる梯郭式城郭構造(「本丸」が奥にありその前に「二の丸」・「三の丸」の順番に造られた城の形を言う。「梯郭式城郭」の梯とは「よりかかる」の意味で、地形的に見れば、「本丸」に「二の丸」が・「二の丸」に「三の丸」が寄りかかったような形になっている城のことをいう。)となっている。現在は本丸跡が花巻市指定史跡となり、「円城寺門」、「時鐘」(時を告げる鐘)などが花巻市指定有形文化財として保存されているほか、城内には土塁や堀跡が当時の姿をうかがわせるようあちらこちらに残っている。』
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円城寺門と馬場口御門跡間の坂。
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馬場口御門跡。
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馬場口御門跡前の坂。
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白堀跡。
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薬研堀跡。
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焔硝御蔵跡。
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東御門跡。
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東御門跡前の坂。坂上は枡形。
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御囲穀御蔵跡。
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消防追悼碑。
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御囲穀御蔵跡(武徳殿)。
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立派な建物でございます。
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鶴陰碑。
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鶴陰碑…『江戸時代中期から明治初年までの百数十年間に、この地方から輩出した諸学、諸芸に長ずる人士の顕彰として建てられた。この鶴陰碑には、儒学、兵学、武技、書画、和歌、俳諧など他に卓越した人びと194人の氏名を刻み、後進人の導きとしたものである。』。
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同じく鶴陰碑について…『鶴陰とは「親鶴が山陰で鳴くとき、その子は親の姿が見えなくてもその声に合わせて鳴く。それと同じように、人の心はふとした言葉にも敏感に感応するものである」という意味です。この石碑は安永年間(1772-1781)から明治時代初めにかけて武芸や学問、書画、和歌などで活躍した花巻の人々194名の名前が刻まれており、新渡戸家・太田家・佐藤家先祖の名が見えます。新渡戸稲造は著書「武士道」の最初の頁で、叔父の太田時敏から「過去を敬う」こと「武士の徳行を慕う」ことの大切さを教えられたと書いています。「武士道」は気高い武士の精神を教える本で、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトがこの本を読んで感動し、日露戦争講和のために力を尽くしたと言われています。』
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南御蔵跡。グラウンドは二ノ丸跡。
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鐘搗堂前御堀。
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鐘堂跡(四角山)・御蔵前御門跡。
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御作事所跡。
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御囲穀御蔵前御堀跡。
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御台所前御門…『この門は、花巻城本丸の南口となる門です。「御台所前御門」という名称は、藩主の滞在用施設であった本丸御殿の「御料理之間」(藩主の食事を支度する場所)に面していたことによるものです。本丸の西側(花巻小学校側)の「西御門」が、藩主の使用する正門であるのに対して、御台所前御門は、本丸内の施設に勤務する城代などの藩士が使用する通用門でした。この門は、本丸と二の丸を隔てる内堀を渡る坂道の奥にあり、屈曲する形で防御用の枡形を構成しています。門の周囲には白壁と土塁(一部に石垣)が設置され、門番には、吹張小路(現在の吹張町)と向小路(現在の桜町)の同心が交替で配置されました。慶長5年(1600)の「和賀一揆」では、領内の反乱鎮圧や最上の上杉氏征伐で兵力の手薄となった花巻城が、和賀・稗貫旧臣による夜襲を受けました。三の丸・二の丸などが突破され、この御台所前御門の付近も激戦となりましたが、城代・北松斎の指揮によって味方の軍勢が帰還するまで持ちこたえ、一揆軍を撃退したと伝えられています。平成24年11月建立』
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花巻城下図に見える台所御門付近…『御門は簡素な屋根門で、門の両側は石垣の上に白壁(狭間)が建てられている。通路は両側に堀がせまり、その間のゆるやかなのぼり坂を屈曲させ枡形にして、攻め難く守りやすい形にしている。』
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同じく御台所前御門跡について…『1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いがあった頃、花巻城に伊達政宗の支援を受けた和賀勢が攻めてきました。花巻城の武士の主力は最上義光(山形)の救援に向っていたため、城代北松斎は残っていた武士や町民とともに戦いました。この戦いで新渡戸春治親子も北松斎とともに奮戦し、御台所前御門で敵の侵入をくい止めましたが、長男常継は大手門で受けた傷がもとで戦死しました。この功により春治は200石を賜り、のちに次男季昭は盛岡系新渡戸本家初代となり、三男常綱が花巻系新渡戸の祖となりました。稲造は花巻系新渡戸本家第11代となります。』
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北松斎の絵(雄山寺所蔵)。花巻開町の祖と言われる第二代花巻城代。
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関登久也歌碑。
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『わがこころ豊かなる日はひとひらの 雲さへ花のごとく匂へり』
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本丸跡。
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花巻城本丸跡…『この高台一帯が、かつて「鳥谷ヶ崎の城」と呼ばれた古くからの城跡で、"往古誰人の始めて築くといふことを伝へず" と「二郡郷村志」に記されている。稗貫氏諸領のころ(12-16世紀)は、ここに瑞興寺(1397年開創)が建っていたという。天正19年(1591)南部信直(南部家26世)の領有となり、北秀愛(松斉の二男)が郡代として和賀、稗貫の二郡を統治するにあたり瑞興寺を現在地(坂本町)に移し、ここをお城の本丸に整備し、名も「花巻城」と改めた。北信愛(秀愛の父、後の松斉)が2代目郡代に就任した翌々年(慶長5年=1600)9月、旧領主(和賀氏、稗貫氏)の残党が蜂起したいわゆる「花巻城夜討ち」のときは、一揆軍が御台所前御門まで押し寄せたが、松斉は、少しの兵力でよくこれを防いだ。松斉の没後、花巻城主となった南部彦九郎政直と岩崎城代、柏山伊勢が寛永元年(1624)12月、ともに非業の最期をとげたのもこのお城での出来ことである。以前、愛宕下からお城の下にかけて北上川が流れており、春は桜の花びらが舞い散って大きな渦を巻いたことが、花巻地名の起こりといわれる。しかし、説話の優雅さとうらはらに、川が度々氾濫して人々を悩まし、また、お城の崖が崩れたりしたので、正保年中(1646)小舟渡八幡宮の東の方に北上川の流れを変える工事が起こされた。その後、断続して工事が進められ、貞享3年(1686)ようやく完成した。今の川筋がそれである。このように、数々の歴史を秘めた「花巻城」も明治維新後、城郭としての存在意義を失い明治6年(1873)本丸御殿を始め両御門、菱櫓など一切の建物が取り拂われたが、平成4年、花巻開町400年を記念して本丸西御門周辺を復元整備した。』。花巻地名の起こりを初めて知りました。この他に「花の牧」という名馬を産する牧場、川下に開けた土地というアイヌ語の「パナ」、川が合流する三角州の牧という端(ハナ)牧に由来するなどの説もあります。
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本丸御井戸。
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御武具蔵跡。
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三社跡。
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西御門(復元)。
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裏側。
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鯱。
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塀と銃眼。
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御長屋跡。
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本丸西御門付近からの眺望。
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御長屋跡から早坂下方面の眺望。
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御長屋跡から西御門。
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御長屋跡にも花巻城跡(鳥谷ヶ崎城跡)の標柱がありました。
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花巻城(鳥谷ヶ崎城)跡…『盛岡中学卒業後、進学希望も許されず、うつうつとした日々を送っていた賢治はこの城跡を訪れた。ここを舞台にした童話に「めくらぶだうと虹」とその改作形の「マリヴロンと少女」がある。「城あとのおほばこの実は結び…」(童話「マリヴロンと少女」・「めくらぶだうと虹」)「その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの実が、虹のやうに熟れてゐました。」(童話「めくらぶだうと虹」)「四っ角山」は花巻城の鐘堂跡の俗称であり、現在は花巻小学校校庭のバックネット裏に位置し、鐘堂跡(四っ角山)の標柱が建っている。』
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鍵御堀跡。
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長屋前御門跡。
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雲井橋。
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こちらは…元々上に何かあったのかな。
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内堀。
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御厩跡。
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佐藤翁碑。
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佐藤昌介…『新渡戸稲造の恩人であった佐藤昌介が、父昌蔵の一生の出来事を刻んだ碑で1922年(大正11年)6月に建てられました。昌蔵は花巻城御取次ぎや、藩御目付を勤めました。昌蔵は1868年(明治元年)の戊辰戦争では盛岡藩の重臣目時隆之進らと勤王派(天皇方)を主張しましたが容れられず、結局は佐幕派(徳川方)についた藩と行動を共にしました。明治時代となり、昌蔵は岩手県や茨城県の郡長を歴任し1890年(明治23年)第1回総選挙では岩手県第3区であった稗貫・和賀郡から立候補して初当選、衆議院議員となり盛岡出身の首相原敬らとともに活躍しました。昌蔵は1915年(大正4年)に死去しました。墓は市内太田の昌歓寺にあります。』
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御役屋跡。
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中御門跡…『花巻城二ノ丸の正門で、この門の北側には亀堀、南側には深い薬研堀があった。二ノ丸には、稗貫・和賀二郡の行政を執務する御役屋(現在の花巻小学校付近)があった。また、ここには南御蔵(同校校庭の東側付近)・馬場(同西側付近)・御厩・御作事奉行役屋・鐘堂・煙硝子蔵などがあったほか、門の西向には、文武の稽古場であった藩学校の揆奮場が設置されていた。』
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早坂。
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御長屋跡から見た早坂と花巻小学校。
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早坂稲荷神社奥之宮碑。
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早坂御門跡
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『花巻城の二ノ丸に建立された楼門で、参勤交代などのときの一日市町・四日町への往来の公道の門であった。門の近くには早坂稲荷社、また坂の下には西御蔵・舟渡場、また八幡寺林通り代官所などがあり、城下の一日市町の入口には、他国の大名・幕府役人など公賓が宿泊した東・西御仮屋などがあった。なお、「廣隆寺旧記」によれば、築城創期には盛岡城への往還、大手口の御門であったと伝えられる。』
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