
全部は紹介できませんが花巻城跡を散策してみました。花巻市役所・花巻市民体育館前からスタート。

花巻市の前身について…『昭和29年4月1日、花巻町、湯口村、湯本村、矢沢村、宮野目村、太田村の1町5村が合併し、県内6番目の市として前身花巻市が誕生しました。また、同年10月には北上市成田の一部を編入し、翌年7月には笹間村を合併し、発展してきました。前身花巻市は、51年余りの歴史を経て、平成18年1月1日に稗貫郡大迫町、同石鳥谷町、和賀郡東和町の3町と合併し、現在の花巻市になりました。往時の花巻市市民憲章碑をここに移設し、シンボルとして市民に親しまれた市章、市の花・鳥・木をここに表記しました。』

市章(昭和29年4月1日制定)。北上川の流れに卍巴となって流れる桜花に映えて発展する観光と文化産業都市を「花」の文字の図案化で象徴したものです。

花巻市の木:こぶし(昭和48年3月1日制定)…『賢治作品にある樹名で早春、純白の花をつけ清楚で樹形は太く、雄々しく、市の気候風土に適し、市民に親しまれています。』

花巻市の花:きく(昭和48年3月1日制定)…『大正8年頃より愛好者の間で奥州菊の栽培が盛んであったが、当市としては総称して「菊」としました。』

花巻市の鳥:フクロウ(平成12年1月7日制定)…『里の森や林に住む鳥で、独特な表情をもち、賢治作品にも登場するなど、広く市民に親しまれています。』

花巻城の歴史。

『花巻城は、10世紀のころ鳥谷ヶ崎城と称して、安倍氏の居城であったと言われている。中世に入り稗貫氏がこの地方を領したが、永禄年間(16世紀後半)鳥谷ヶ崎城に本城に移した。天正19年(1591)稗貫氏が滅亡し、この地方は南部氏の一族である北秀愛が稗貫・和賀二郡の八千石の城代となり、鳥谷ヶ崎城を花巻城と改めた。その後、慶長3年(1598)北松斎が2代目の花巻城代となり、同19年(1614)南部利直の庶子南部政直が稗貫・和賀二万石の花巻城主となったが、故あって寛永元年(1624)に非業の死を遂げ、以降は藩士が交替で城代となり花巻城を治めた。花巻城は、地形に恵まれた要塞堅固な城であり、明治元年(1868)に開城となるまで、伊達藩境にほど近い要衝として南部藩の拠点となった。その形態は丘陵地を利し、周辺に深い堀を設けた平山城城で、規模は、東西約710m、南北約500mを計り、北から本丸、二の丸、三の丸からなる梯郭式城郭構造となっている。現在、本丸跡が市指定史跡として保存されているほかは、公共施設や道路、民家によって占められているが、往時の威容は西御門跡付近や散見される土塁、堀跡にその名残をとどめている。また城内の建物や文化財についても、円城寺門や、時鐘(いずれも市指定有形文化財)、さらに当時の武家住宅の趣を今に伝える松川家、伊藤家などがあり、貴重な文化遺産となっている。平成9年7月花巻市教育委員会』

花巻城大手門(追手門)跡。

大手門…『この大手門は、花巻城の一部として構築されたものであり、その前面北側に濁御堀、南側に上御堀をめぐらし守護の要となっていたものである。濁御堀については、昭和32年頃菊池彦次郎がこれを干拓し、その後花巻市が譲り受けて市庁舎敷として改修したものである。昭和49年7月花巻市』…「改修したものである」って…市庁舎に改修しちゃったのかい!って突っ込みたくなるような(笑)

大手門枡形。


花巻城時鐘(高さ95cm・口径78cm)。

花巻城時鐘(昭和35年5月7日指定)…『この鐘は、盛岡城時鐘として正保3年(1646)に鋳造されましたが、鐘声が小さいことから延宝7年(1679)に花巻城へ移されたものです。花巻城二ノ丸の四角山と呼ばれる一角(現花巻小学校敷地内東側)で時を告げるため鳴らされていました。鐘の横には、「南部盛岡城鐘楼銘」に始まる22行238字の銘文があり、鋳造の経緯や領内の安寧を祈念する文章と共に、南部家28代当主重直や家臣及び藩お抱え鋳物師として製作にあたった鈴木忠兵衛・忠左衛門の名が記されています。この銘文を揮毫したのは、江戸時代初頭の朝鮮外交で国書偽造の罪に問われ、当時盛岡へ配流となっていた規伯玄方(方長老)です。』柳川一件のことですね。ここでは触れませんが柳川調興は弘前藩と非常に深い係りがあります。墓所は長勝寺。

この辺りはかつて賢治が学んだ花城小学校跡地です。西には賢治が通ったと考えられるひゃっこ坂があります。


花城小学校跡…『賢治は、明治36年(1903年)花巻川口尋常高等小学校に入学しました。その後、校名は花城尋常高等小学校に改まり、明治42年(1909年)3月に同校を卒業しました。』

花城小学校跡。

『宮沢賢治は明治36年(1903)、花巻川口尋常高等小学校に入学する。在学中、花城尋常高等小学校が落成するが、その時に賢治が綴った古い校舎をいとおしむ作文が残されている。「古校舎をおもう」「-略-、あー、我等と一しょに、四年の上も苦楽を共にしたあの校舎も今は捨てられて、この寒い時に只一人、あの風あたりの強いところで寒さに泣いているであろう。-略-」在学中の賢治は成績・行状とも優等。鉱物、植物、昆虫採集に熱中する少年だった。』

花城小学校此処にありき…『明治6年、創立された川原小学校はその後、数次にわたる変遷を経て、明治38年、この地に、校舎を新築移転して、校名を花城尋常高等小学校と改めた。以来35年、教育の実践に、学校の経営に、その声価を全国に高め、輩出した幾多の人材は、我が国の政治経済文化の発展に貢献した。昭和15年、花巻小学校との統合により、花城小学校はこの地から永久に姿を消し、今は唯、弥生の松に往時の面影を畄めている。茲に、花城小学校を母校とする人びと、及び当時の教師らが、その頃をしのび、後進の人たちへの風教の一助ともなることを思い、この碑を建てて、永く後世に伝えることとした。昭和60年5月10日花城尋常高等小学校教職員・花城尋常高等小学校卒業生』

新渡戸稲造…『国際連盟事務局次長や東京女子大初代学長などをつとめる。日本の武士道の精神を紹介する本「Bushido」を刊行、日本文化の海外への紹介に大いに貢献する。「願わくは、われ、太平洋の橋とならん」という言葉を遺した国際人。』

花巻夜間中学跡(大正15年花城尋常高等小学校内に設置)…『新渡戸稲造は「今後は武士道よりも平民道を」と、国政に参加する平民(公民)時代の到来を告げました。昭和6年に北海道帝国大学総長の佐藤昌介の援助で、組合立花巻中学校(現県立花巻北高等学校)が四日町に開校した時、佐藤昌介の甥で花巻中学校初代校長の佐藤昌は「中学校は公民を造るのが目的」と訓示し、それが同校の教育目標となりました。花巻中学校誕生の基となった花巻夜間中学は、花巻北高校史の「前史」に記載されております。』

佐藤昌介…『盛岡藩士佐藤昌蔵の長男として花巻仲小路に生まれる。幼名謙太郎。札幌農学校時代、クラーク博士の教えを受け、その後、農学・教育に尽力する。後に昌介は学問の振興と北海道開拓の功績が認められ、勲一等旭日大綬章を下綬された。』

ひゃっこ坂(現在の花巻市役所から賢治の生家へ南下する道を通称ひゃっこ坂といいます。この途中に賢治が設計した花壇がある旧橋本家別邸があります。現在は中に入ることができません。また、ひゃっこ坂を下りて右に曲がると、童話「注文の多い料理店」のモデルとも言われている精養軒の跡地があります。)を下り、上御堀跡(現駐車場)前を通り、下御堀跡との間にある観音寺跡へ向かいました。

御堀の位置について。

現在の花巻城跡周辺。

昔の花巻城周辺。

花巻城案内図。

枡形…『円城寺坂までの道は「枡形」という防御施設であり、見通しの利かない様に道を入り組ませた場所をいい、敵の軍勢が道を進むときに、勢いを弱めたり、待ち伏せたりして簡単に進めないようにするためのもの。花巻城のいたるところに、このような「枡形」は造られていた。』。


観音寺観音堂鳥居。

観音寺観音堂。

盥水。

花巻市指定天然記念物「千本カツラ」。


こちらの墓碑らしき石碑は読みませんでした(状態としては読めます)。中央に梵字。紀年銘部分は欠けていました。案内板によりますと、庚申塔(天保14年9月)と当国三十三所塔(嘉永7年7月7日)があるようですが気付きませんでした。

色々な石碑や案内看板があります。

新渡戸稲造博士生誕百五十年記念顕彰碑(2012年9月1日)。

『「願はくはわれ太平洋の橋とならん」の信念のもと、明治から昭和にかけて世界を舞台に活躍した新渡戸稲造博士は、心の支えとして先祖崇拝を重んじていた。稲造博士は、曽父維民(これたみ)-兵法学者-、祖父傳(つとう)-先駆者-、父十次郎(じゅうじろう)-藩外務省-に限りない尊敬の念を抱いていた。メリー夫人も記しているように、これらの人々はみな稲造博士の才能と人格の形成に寄与しており、稲造博士の精神的推進力とあいまって彼を最高度の努力へと駆り立て、偉大な業績を残させた。また、新渡戸稲造博士の先祖は、新渡戸氏33代春治(ときはる)から40代維民までの8代約230年にわたり花巻市高松安野(花巻新渡戸記念館周辺)の地に居住し、盛岡藩の家臣として新田開発を初めとして花巻の地域開発に大きく貢献した。本年2012年は新渡戸稲造博士の生誕150年にあたり、これを記念しここに顕彰碑を建立する。2012年9月1日』

『武士道日本の心ここに』…<献辞>過去を敬うことならびに武士の徳行を慕うことを私に教えたる我が愛する叔父太田時敏にこの小著をささぐ

花巻の先人佐藤昌介翁記念碑。この地に「花巻魂」あり…『佐藤昌介は、盛岡藩士昌蔵・キンの長男として、安政3年11月14日花巻城下に出生。出生地に仲小路説と御田屋小路説がある。幼名謙太郎。14歳の時戊辰戦争の悲劇を見、発奮して上京。20歳の時、札幌農学校一期生としてウィリアム・クラークの「青年よ大志を抱け」の教えを受け、卒業後は北海道開拓に身を捧げた。のち北海道開拓の祖・北海道大学の父・日本農業の父と呼ばれるが、その不撓不屈の精神を、同郷人の活躍とともに「明治維新の後も花巻魂を失はずして活躍する者あるは先祖伝来の賜物」と書いている。昭和6年組合立花巻中学校(現花巻北高等学校)の創立に尽力し、思いを故郷の後輩に託す。昭和14年死期を覚り、死の10日前、5月25日次の詩を花巻に住む妹婿の菊池捍に贈った。「山水入吟境華城花月清 寄懐釣魚容尤是古友情」景色も美しく歌を吟じたい季節になった。今頃花巻城は花も月も美しいことだろう。仲良く魚を釣ったことを懐かしんでいます。(6月5日札幌で死去、豊平墓地に埋葬された。)』

【佐藤昌介年譜】
1856安政3年11月14日(1)盛岡藩士昌蔵の長男として花巻城下里川口村で出生。
1869明治2年2月(14)戊辰戦争終結。(家老目時隆之進自害の責めにより)昌蔵隠居、昌介家督を継ぐ。
1870明治3年1月(15)盛岡の作人館で原敬らと学ぶ。
1871明治4年1月(16)上京、大学南校(のちの東大)に入学。
1874明治7年3月(19)東京外国語学校(12月東京英語学校と改称)入学。
1876明治9年8月(21)クラークに従い、8月新設された札幌農学校に入学。
1877明治10年9月2日(22)メソジスト教会 宣教師ハリス師から洗礼を受ける。
1878明治11年(23)佐藤家花巻から盛岡に移住。
1880明治13年7月(25)札幌農学校卒業。
1881明治14年7月(26)淡路島州本城主稲田邦植の妹ヤウ(陽子)と結婚。
1883明治16年(28)ジョンズ・ホップキンズ大学入学。
1884明治17年(29)学術研究でイギリス・ドイツに学ぶ。
1886明治19年(31)博士の学位を得て帰国、札幌農学校教授となる。
1894明治27年(39)札幌農学校校長となる。
1899明治32年3月(44)新渡戸稲造らとともに日本最初の農学博士となる。
1900明治33年(45)北海道農会長となる。
1907明治40年(52)札幌農学校が東北大学農科大学となり、学長となる。
1913大正2年(58)第2回日米交換教授として渡米。
1919大正8年4月1日(64)北海道帝国大学となり総長となる。
1922大正11年(67)佐藤翁碑を建立。
1924大正13年5月19日(69)修学旅行の統導で北大を訪問した宮沢賢治と会う。
1924大正13年(69)勲一等瑞宝章、正三位を贈られる。
1926大正15年(71)勲一等旭日大授章を贈られる。
1928昭和3年(73)男爵となる。
1928昭和3年11月23日(73)花巻高等女学校で講演(2回目)。
1928昭和3年11月23日(73)花巻川口町役場新築落成式典に参加。
1930昭和5年12月19日(75)北海道帝国大学総長を退任。
1931昭和6年2月(76)組合立花巻中学校創立促進のため尽力。
1931昭和6年3月(76)花巻中学校初代校長に佐藤昌を推薦し実現させる。
1933昭和8年11月(78)新渡戸稲造の葬儀委員長となる。
1936昭和11年6月(81)ロータリークラブ国際大会日本代表となる。
1939昭和14年5月25日(84)死期を覚り御田屋小路の菊池捍宛漢詩を贈る。
1939昭和14年6月5日(84)札幌で永眠。札幌市豊平墓地に眠る。従二位を贈られる。

観音寺観音堂の由来…『この観音堂の起源は詳しくわかっていないが、花巻開町の祖である「北松斎」も厚い信仰を寄せていた観音堂(観音寺)であったと伝えられている。この観音堂(観音寺)は当国三十三観音の二十五番札所であり、花巻七観音参りの一つとして賑わっていた。しかし、明治政府の神仏分離令(明治元年に政府により発令された法令で「神社」と「お寺」を別々にするためのもので、全国でお寺が廃止になったり合併になったりした。)によって観音寺は廃寺となり、観音像(北松斎公の持仏「髻観音(戦の時に兜の中に納めた観音)」や「お前立ち(本尊の前に安置した仏像)十一面観音」などが寺の宝として納められていたと言われている。)など寺の宝は他の寺へ移され、観音堂(本堂)は西宮野目の「三嶽神社」の拝殿として移された。現在の「延寿寺観音堂」は、明治の中頃に町内の講中(講中とは、神仏の信者が作った団体。)によって新しく建てられ、新たな本尊として十一面観音立像などが大切に納められ、毎年7月17日の宵祭や12月17日の年越祭が縁日とされています。また、境内にはその歴史を物語るように、樹齢数百年と伝えられる「千本桂」があり、花巻市の天然記念物に指定されている。そのほかにも、境内には天保14年(1843年)9月と刻み込まれた「庚申塔」(庚申塔とは、旧暦の「庚申」の日に体内に棲む「虫(三し)」が天に昇りその人の行いを天帝(帝釈天)に伝えると言われ、その日は行いを慎み、「虫」が出ないように徹夜で過ごした。この様な集まりを記念して建てられた塔を「庚申塔」といいます。)や嘉永7年(1854年)7月7日と印された当国三十三所塔など、当時の観音巡礼を記念した石碑が建てられてあり、江戸中期の石碑として貴重なものです。また、盥水(盥水は神社でよく見かける石をくりぬいて水をためているもの。)には享保2年(1717年)奉納と刻まれている。』

明治3年(1870)廃仏毀釈により三嶽神社の拝殿となっています。


十一面観音。

髻観音。

延寿寺観音堂…『昔この付近に延寿寺という寺があり、その後円城寺といわれるようになりました。坂の上の鳥谷﨑神社の円城寺門は、和賀の二子城の門が移されたものです。円城寺が御田屋町に移されたあと、1673年頃に観音寺が建てられ、その後観音堂が祀られました。1815年(文化12年)南部藩が打ち出した花巻城改革案に対する陳情願書の提出をめぐって、新渡戸維民(稲造の曾祖父)たちが70日間このお堂に籠もって議論を闘わせました。維民は首謀者と誤解され1820年(文政3年)下北に左遷されました。維民の頃のお堂は、明治時代に宮野目に移され三嶽神社となっています。』

円城寺坂上から見た観音堂。

三ノ丸跡。上御堀跡方面眺望。

『花巻城跡 ~ 其之弐(岩手県花巻市)』へ続く。

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