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二代藩主信枚の治世中に染物業者を紺屋町におきました。慶安の絵図では100余軒の紺屋があります。「封内事実秘苑」には元禄3年(1686)に弘前に織座を始めたとあり、絹職人高森太郎兵衛を京都より招き、織座(機織所)で専ら軍旗を織りました。次いで元禄12年10月、織物師欲賀・富江の両名が弘前着、同13年4月に織座の敷地が定まり、織物師弥兵衛・甚九郎・忠兵衛・その他糸繰女わさ・さつ・せん、糸取女しな・かつ等10数名を京都より招き、11月初旬から元寺町で織り始めます。翌14年(1701)3月には野元道玄が壮大な機業場を紺屋町に建て、これを織座又は織物会所と称しました。野元は古義茶道に通じ造庭の名人で、新寺町本行寺貞昌寺茂森町隣松寺の庭は彼の造園と伝えます。また、製紙の技術にも通じていました。ちなみに小沢村の野元という小字は、織座附属として桑・楮・茶を植えた場所。
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織座の職人の多数は京都(主に近江)から招かれており、一家を挙げて来弘した者もあり、その京風な生活は付近の住民に少なからざる影響を与えたと考えられます。
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織座があった頃の古地図(※下の地図とは別)を見ると織座付近に織座稲荷神社という社が鎮座しているのがわかります。比較的あたらしい昭和10年地図では株式会社弘前織物などが見えますが稲荷神社はありません。
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織座稲荷が記される古地図とは少々場所が異なるのですが、紺屋町には現在も稲荷宮が鎮座しています。少なくとも明治以降の古地図にも織座稲荷神社の名は見えますし、拝殿内には明治期の絵馬も奉納されており、当町の歴史から推測すれば、織座を始めとし、足軽、橋守、舟守、醸造、魚店など様々な人々に崇敬され、現在も紺屋町の産土神として鎮座していると考えられます(法人・紺屋町々会の所有財産になっていて、世話人が選出されて維持運営)。
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向拝下。
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拝殿内。元禄3年創建。御祭神は倉稲魂神、荼枳尼天。農作物、除災招福の神として祀られています。例祭日は旧暦6月17日。(一部上記と被りますが…)弘前藩は寛文3年、浪岡にカイコ派立をつくり、桑の栽培・蚕の飼育・生糸づくりをはじめました。延宝4年、近江から機織職人を招き、次いで元禄3年に京都から絹織職人高森太郎兵衛を招いて本格的な織座を開設。織座ではもっぱら軍旗(旗印・馬印・旗指物・陣幕など)を織りました。紺屋町は染め物職人の町だったので、染めと織りが一体となり行われました。この年、京都の伏見稲荷神社から、織座稲荷を勧請して勧請したと考えられています。さらに4代藩主津軽信政は、元禄7年に京都より奥医師野元道元を招き、製糸・機織の高度な技術を指導させ、新たに規模の大きい藩営の機業場を建てて操業。これを織物会所と呼びました。この頃より、民間の織物業もおこり、手織りなどが盛んになっていきました。
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明治16年旧6月奉納の絵馬。
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天岩戸隠れの絵馬。
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白狐一対。
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本殿。
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手水舎。
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末社。
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庚申塔2基。
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町有財産の表示。
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