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岩手県花巻市太田。曹洞宗 法音山 昌歓寺。
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奥州市水沢区の大梅拈華山円通正法寺末寺。開山は正法寺正住三世虎渓良乳禅師。
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宝暦13年(1762)編纂の法音山亀記によりますと、良乳禅師の弟弟子の当寺二世に当たる舌叟妙弁和尚が、現在の花巻市笹間栃内の上人塚の東方200-300mの地に庵を結び専ら布教につとめており、時の豪族根子大和守の帰依するところとなり、仏殿、禅堂、庫裡、山門の寄進を受けたのがその始まりと伝えます。文禄元年(1591)岩崎の乱に遭い諸堂灰燼に帰し、光鷲和尚伊達の棚木に難を逃れ病死。その徒十世渓岩光浦和尚栃内の地に帰り、寺を復興しようとし、時の郡代岩間将監に相談し、岩間氏が領主南部公に旧緒を告げたところ、開基の根子大和守の館跡方四百間を寄進され、文禄4年(1594)現在地に移転再建。
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山門。
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重層楼山門は文政3年(1820)に建てられた昌歓寺最古の建物。
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三間三戸の楼門形式の壮大な建物。屋根は入母屋の瓦葺きで組物や妻飾りなど見応えがあります。楼門に力士像はありませんが、文久3年に2階部分に釈迦如来坐像を中心に十六羅漢像が祀られました。花巻市指定有形文化財。
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太田ふるさと案内板より…『法音山昌歓寺。曹洞宗。奥州市水沢区黒石町の正法寺の末寺であり、応永3年(1396)に、正法寺三世の虎渓良乳禅師が開山した。当初、笹間栃内にあった昌歓寺は岩崎の乱で諸堂を焼失した。文禄4年(1595)に、同寺十世の渓岩光浦(けいがんこうほ)和尚が、現在地に移転再建した。同寺は3度の火災にあったが、本尊釈迦牟尼仏など4体の諸像は、難を逃れた。本堂は大正2年に落慶した。太田八景の一つ。太田ふるさと会』
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太田ふるさと案内板より…『佐藤昌蔵の墓。佐藤家は代々花巻城に仕え、昌歓寺には元禄時代からの墓があった。昌蔵は天保4年に花巻に生まれ、秀才の誉高く、幕末の頃には花巻城のお取次役(秘書)を勤めたが、後に藩の大目付となった。明治3年、盛岡県ができて小参事として体制に参画した。明治23年、選ばれて衆議院議員となる。大正14年11月、83歳で没した。昌蔵の長男昌介は新渡戸稲造とも関わり、北海道大学初代総長である。太田ふるさと会』
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本堂。
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大正12年竣工。
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位牌堂。
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庫裡。
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水子地蔵尊立像。
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閼伽水。
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観音堂。
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観音堂内。
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毘沙門天もいました。
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千体地蔵堂。
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『このお堂は千体地蔵堂で元治元年10月に作られ、堂内の千体地蔵尊は昭和33年に作られたものである。高瀬昌亮氏が先亡供養のため寄進されたものである。』
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こちらは…読めそうで読めない…。
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昌歓寺HP内の歴史紹介文から察するに山神堂か薬師堂。
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六地蔵。
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千布翁碑…『翁姓藤原名秀愛字子敬号雪晒亭所謂通称庄六又号庄兵衛花巻城之士也翁?事商買富有巨万富而不驕辞貴而己矣其恭敬敦篤誠信実義自有以過人者平生検素衣不過綿布食不重山海雖然周絶■(土+專)恵必不愛矣天保年間凶饑三発米廩賑富貧窮助命者以千数而後田十有四反寄附豫備倉当永通矣此他陰徳不可枚挙也徳動郷党功達 朝令嗣子秀安俸禄賜百十有七石加城給者是翁之労績可謂高瀬氏功祖也側能俳諧歌秀句■(安+頁)存遺薄也翁妻高瀬氏女子男庄右衛門秀安女四人許嫁有子孫男喜代八秀賢孫女四人皆有媒約幼未嫁矣翁天然長寿頭無白毛歯無欠損不出里門数十年精神気力老而不衰年八十以弘化二乙巳十一月十有九日病卒於家法号千葉布栄居子 銘日 蒼蒼竹幹 如南山寿 生平堅行 高志大節 積善餘慶 枝葉繁茂 是銘貞石 名貼永世 維持弘化四丁未年二月二十六日 修復平成三辛未年二月二十六日 米園陰士 一秀謹撰 孝子 高瀬秀安建 十代 高瀬心再建』。
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承陽大師・見真大師などの石塔。
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