

瀬辺地村(小瀬辺地村。大瀬辺地村は広瀬村)。



字田浦にある天満宮(観音堂)の創建は寛文12年(1672)。


御祭神は菅原道真霊。



天満宮は元々観音堂として長く村民に篤く崇められてきました。

明治初年の神仏分離の際に、菅原道真を祀って天満宮に改称。

明治初期の社寺明細帳によりますと、当村の産神で菅浦倶衛が兼務。


明治6年から同9年にかけて郷沢村稲荷神社ヘ合祀し、後復社。


記念碑等。



戻って観音堂へと向かいます。

部落から1km離れた田地内にあった馬頭観音堂が参詣に不便であるとの理由で、昭和36年3月17日に天満宮境内に遷したそうです。


これを記念とし奉遷記念碑が建てられました。

碑文…『瀬辺地の部落は神代の昔所謂縄文式時代前期に天満宮境内に続く小高い台地(通称ナガレ)に人間が居住していたが考古学者の観察によるとその後縄文式時代の中期から後期にかけては人類無住の地として経過し即ち亀ヶ岡式時代の晩期にこの地及び玉松台附近の台地に再び人間が相集り村落を形成した。所伝によると体力の逞しい「セヘ」と呼ばれた人が首長としてこの地を統帥し農業もこの頃から始められたという。延暦20年坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際「セヘ」が滅びこの時から「セヘ」の住む地として瀬辺地と名づけられたという。この頃から本村には木造の観音菩薩像が安置されてその背に金属製の観音像を負わせて田浦2の6番地に祀り氏神として崇拝して来たが元禄年間に盗難に遭い行方不明となり現在下北郡に移祀されているという。その後宝永2年8月石造の馬頭観音像を祀り部落の平和と国家の安泰を祈り氏神として田浦217番地に移転して永い間部落民が崇拝し参詣して来たが明治6年神仏合祀が許されずこの地に天満宮を建立するに至り本尊像もまた昭和30年頃から天満宮境内に移転の声が高まり、浩宮徳仁親王殿下の御誕生を卜して昭和35年8月堂宇が完成し奉遷祭を執行したこの縁起を永く伝えるために奉遷記念碑建立の議が起りこの由来調査を青森市小野忠明氏に頼み蓬田村坂本種一氏弘前市村上正氏及び部落民一同の協力を得て茲に実現するに至った。昭和36年3月17日』


観音堂周囲にあった庚申塔など。





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