
大豆坂通の沿道に位置します。

社号標(明治39年9月14日)。

青森市合併記念碑(昭和30年1月1日)。

貞享4年検地水帳によりますと、地内には虚空蔵堂地、不動堂地、熊野堂地がみえます。享和3年(1803)寺社領分限帳や安政2年(1855)神社書上帳によりますと、地内に新山宮、熊野宮、不動堂が見えます。

新山宮は文禄3年(1594)に高田・大別内両村の産土神として創建され(由緒では草創大同年間)、慶長14年(1609)5月に大谷村を加えた3ヶ村で再建。貞享4年(1687)検地水帳の虚空蔵堂にあたります。※下の狛犬(写真)は紀年銘昭和36年。


明治3年に新山宮から熊野宮に改称。明治6年4月村社。なお、上記のもう一つの熊野宮は同社の末社で、草創年月は不詳。寛文年間(1661-1672)に高田村中にて再建。

新山宮の末社には惣染堂(馬頭観音堂)と弘化5年(1848)建立の疱瘡社もありました。後の明治初年に神仏分離によって新山宮は熊野宮を本社とし、惣染堂は保食神社となり、疱瘡社は久須志神社となり、熊野宮に合祀されます。なお、不動堂は愛宕神社への改称を願い出るも許可がおりずに廃堂となったそうです。

保食神(うけもちのかみ)。※保食は旧字です。


蟇股が白馬です。珍しいですね。

肝心の石碑は穴から少しだけ拝むことができます。

『碑面には、天保14癸卯年3月吉日、庄屋七太郎 願主阿保久七と刻まれている。保食神を建立したことは、凶作、飢饉で疲弊した地域民の生活を憂いてのものであるように考えられる。碑を高田の村人は、祖神堂(そうぜん堂)といって詣でたという。「菅江真澄のすみかの山」歴史の証である。開祖久七の遺徳を偲びここに私財をもってお堂・鳥居・木碑・奉納旗等を新しく整えて神事の後、村社熊野宮へ寄進した。平成6年8月14日五代阿保健蔵』

菅江真澄は次のように記しています…「高田の村はずれにきた。ここに九十九盛りといって、広い田の面につむれとかいうものが、ひしひしと並んでいる。…(中略)…機織の社は、中に天御中主の神、左にたなばたひめ、右にいざなぎの神、この三柱をまつっている。この社の西北方の岡の上にも祠があって、稚産霊神、保食神をまつり、村人は祖神堂とよんで、5月5日に、近いあたりの人が牛馬をひきつれ、ここにうちむれ詣でるのだという話である。」。

権現堂。

堂宇には丁寧に「校倉造模造」とありました。




高田熊野宮の御祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命。

神官の浅利家は大川治郎兼任の一族浅利弾正忠兼の後裔。


文治年中衣川の館にて一族破れ、兄は檜山弐度館を築き、大膳の祖先は毛間内に落ちつきます。天正5年(1577)南部信濃守のとき横内に隠れ、阿保氏の族となり養育されます。文禄2年に高田村に引越し、相伝の神体を守護、神主となります。


社殿の向拝下。

蟇股・木鼻。



本殿(流造・6尺4面)。正面は立派な龍でしたが、懸魚の下附近には熊野宮らしく熊がおりました。




拝殿正面から見下ろした図

手水舎。


かなり大きめの龍がおります。


どことなく愛嬌もあり、子どもに人気が出そうです。


こちらは手水鉢だったのかな…石が詰められています。

その他にも不明な石がいくつかありました。



境内のいたるところに大きな切り株が残されています。



そして切り株には石などが置かれています。


いかにも鎮守の森といった雰囲気もいいですね。

社殿前の狛犬2対(昭和11年・明治26年)。




熊野宮境内地・国有地譲與記念碑。

奉祝天皇陛下御在位六十年記念碑。

社殿右にも鳥居と参道がありました。

小高い丘になっています。


「天満大自在天神」。所謂天神様(菅原道真公)です。

裏には明治35年3月25日の紀年銘がありました。

菅公千年記念のようです。

上部の達筆な崩し字は私には読めません。苦手でございます。

この丘の上から高田獅子踊り保存会会所が見えました。

境内にあるこちらの建物は物置小屋でした。


御大典記念碑(昭和3年11月10日)。

庚申塔など。

中央の庚申塔と二十三夜塔はかなり大きいです。

庚申塔(天保3壬辰年9月17日・當村中)。

二十三夜祭塔(大正元壬子年9月23日・英堂拝書)。

両脇の小さな庚申塔は読み取れず。


石の上になぜかサザエさん。

こちらは熊野宮に並行して建てられている観音堂。


狛犬一対(昭和34年)。


奥院部分は両脇に馬、中央には観世音菩薩や成田山のお不動さまの掛け軸など色々あります。

2体の石仏の台座にはそれぞれ番号が彫られてあり、かつては三十三観音か何かだった可能性もあります。

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