イメージ 1
弁慶マタギ伝承の地。江戸時代には木樵・炭焼などの山仕事を主業として、農業やマタギを副業としており、大川原のマタギは黒石陣屋に熊皮と胆を納めていたそうです。
イメージ 2
また、県無形民俗文化財である大川原の火流しでも有名です。火流しは御醍醐天皇の第三皇子宗良親王を長年に渡りかくまった信濃の豪族香坂高宗の子孫が、戦いに敗れて大川原に落ちのびて、南朝方戦死者の慰霊と故国を偲び、約600年程前に始めた精霊流しが起源となっており、古い歴史や伝統を感じる地域です。現在毎年8月16日に行われており、藁と萱でつくった舟に火をつけ、中野川に押流して村内安全・疫病退散を祈り、来年の豊凶を占います。
イメージ 3
元禄4年(1691)の黒石御絵図に大川平とあり、同7年の黒石平内戌年郷帳では大川原村となり、享保10年(1725)の黒石領郷村帳では黒石分新村として大川原村が記されます。
イメージ 4
大川原鎮守の稲荷神社。御祭神は倉稲魂命。
イメージ 5
イメージ 6
元禄5年(1692)もしくは元禄8年(1695)、住吉大明神と観世音を建立。
イメージ 7
青森県神社庁HPによりますと、時の公家村は、往古、外ケ浜より笠松峠をかけて小川添に下り黒森山の下を通り、オーバク平と云うところを経て国中の方へ出る道筋ですが、寛永年中、高橋久作、佐藤三之丈の2人は国中より浅瀬石川に沿い小川に上って土の目量を計ったところ、当地は良土であったので、此処を住民地と定め、田畑を開墾し段々移住の者が増えたといいます。後に黒石藩主より公家村を改め小川原村と云う名を付けられ、更にその後、何らかの理由で現在の大川原となります。万治年中に田山堰ができてから堰添を通り黒石へ出ることとなりました。元文元年(1736)4月、稲荷大明神を住吉大明神の内へ造立。
イメージ 8
イメージ 9
明治の神仏分離によって住吉宮並びに観世音を廃止、稲荷大明神を氏神として勧請。中野神社が板留村から少名彦神、大川原村から稲荷神を遷して一時相殿としています。
イメージ 10
お見せできませんが、局部までしっかりと造り込まれている狛犬一対。
イメージ 11
イメージ 12
イメージ 13
イメージ 14
末社。
イメージ 15
イメージ 3
イメージ 2