男坂です。神田駿河台と猿楽町の間に位置する坂道。
猿楽(後の能楽)は室町時代以降、多くの武士たちに楽しまれ、なかでも観阿弥・世阿弥の流れを受け継ぐ観世座は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。
その家元観世太夫や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町1・2丁目から西神田1・2丁目付近にあったことから、この一帯に猿楽町という名が生まれたそう。
江戸時代は主に武家屋敷が軒を連ね、元々武家地には町名が付けられていなかったため、猿楽町という町名が正式に誕生したのは明治5年(1872)。
73段の急勾配。
坂上から正面建物の階数と目線を合わせれば、その高さがわかると思います。
標柱より…『この坂を男坂といいます。駿河台二丁目一一番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名づけられたものです。この坂のできたのも比較的新しく、大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所、あるいは並行してある坂の急な坂を、女坂はゆるやかな坂というように区別されて名付けられています。』
続きまして女坂です。
猿楽町と駿河台の間に位置する坂道で男坂に平行しています。
82段とはいえ、勾配はかなりあるかと思います。
標柱より…『この坂を女坂といいます。駿河台一丁目七番地の端から猿楽町に下る石段の坂"男坂"に対して名付けられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ、中途で中やすみするようになっているので"女坂"と呼ばれています。この坂のできたのは、大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。』
坂上と坂下に石造の標識もあります。
はっきり言って…男坂とさほど変わらぬ勾配です。
猿楽通りにあった東京音楽大学発祥の地。
『東洋音楽学校(現東京音楽大学)は、明治40年5月1日、この地に設立された。校長鈴木米次郎は、音楽教育の先駆者で、恩師でもある伊沢修一、高楠順次郎、島崎赤太郎らを評議員に迎え、わが国音楽文化の近代化を目指して創立した。』
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