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鳥居…クモの巣と草木で参道がほぼわかりません。
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大鰐町の戸和田貴船神社を思い出しました(笑)
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数メートルだけ掻き分けて進入すれば何とか歩ける参道になります。
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二の鳥居。
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二の鳥居を過ぎてからは普通に歩ける感じでした。
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三の鳥居。
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本来の参道ではありませんが、一の鳥居から10mほど離れた場所に神社へと行く道があります。草木を掻き分けて進入するのが嫌な方はそちらから行くといいでしょう。
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延宝8年(1680)、五穀成就のため勧請。御祭神は稚産霊命。伊邪那美命が火之迦具土神を産んで病床に伏せていた際に尿から生まれた穀物・養蚕の神です。日本書紀では軻遇突智神と土の神埴山姫の間に生まれた子となっていますが、私は古事記しか読んだことがないので詳細は割愛。
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かつての目内崎村。目内崎集落西方の山地がかつて海に突出した半島であり、この又崎(半島)から転じて目内崎という地名が生まれたそうです。
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安政2年神社書上帳によりますと、延宝8年(1680)創建の貴野神社・観音堂、古くは弁天宮もありました。貴野神社・観音堂は後に若野宮(稚野神社)となります。元禄6年(1693)再建。
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旧村社。明治6年に胸肩神社(弁天宮)とともに種里村八幡宮に合祀されるも後に復社。
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菅江真澄が雪のもろ滝の中で次のように記しています…『(日照田村から)左の津軽沢というところから流れでる小川を渡り、赤石川もわたって、館前、川崎などの村を左にみて、山子のあたりもよそにみ、目内崎という村をゆくと、高い崖の木々の茂りあっているなかに神社がある。和歌のみやとか、わかの林ともよばれていた。なおそのいわれを尋ねると、中むかしのころであったか、松前のある殿様の若君が、ここにあった寺に勉強しにきていて、もがさ(天然痘)を病んで亡くなられた、そのなき魂を神にまつられたという。かの君に三人の従者があった(3人の従者の住居のあともあった。その人々の名は何とかいったという)。また乳兄弟に山上八九郎という武士がいて、その家のあとは、いま田の中に山上という名だけをのこしているにすぎない』。
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本殿。
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末社稲荷宮。
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末社馬頭観音。
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