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五代の地名は古最勝院の五代(大)尊を安置していたことにちなむそうです。
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庄屋紋兵衛書上によりますと、地内に才兵衛地蔵、戦国末期勧請の五大堂、白山堂、蔵王権現堂などが見えます。後から述べますが、この場所は長勝寺跡地(海蔵寺跡地)ともなっているのですが、文亀3年(1502)大浦氏の居城を営んでからの話であり、それ以前から寺社仏閣が存在していた場所と考えられています。
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十二所権現で熊野信仰。御祭神は十二所権現(天神五行)…天神七代・地神五代。創建は不詳。村中にて建立。明治5年に築館の稲荷神社に移し相殿となるも後に現在地へ復社。寛政4年12月・文政4年5月の棟札があります。
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社殿というより本殿覆屋です。
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中には色とりどりの折鶴がありました(平成2年旧6月15日氏子一同奉納)。
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天照皇大神の碑(嘉永2年4月)。
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境内案内看板より…『十二所とは、古くから十二柱の神を示したものであり、それを祀るところから十二所神社と言われてきたが、その起源は相当に古く、紀州(和歌山県)の熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を総称して三所権現、あるいは三社の神十二柱を総称して十二所権現としたところに遡る。当社も十二所権現とも称したが、これは日本の人々を救済するため本地の神が、権(かり)に神となって現れたとする神仏習合の修験道によるものであり、それは役小角(奈良時代の呪術宗教者)を開祖とする日本独特の宗教による。津軽の地に熊野三山の宗教が入ってきたのは、900年以前と思われ、それには三山に従属した御師、先達、山伏等が全国を遍歴し、熊野の神札である「牛王宝印」を頒布し、教導したことと無関係ではなく、そのために津軽の武士や庶民の間にもひろくいきわたったものと思われる。当神社は、神社微細調に「右草創月不詳候」とあるように、その創建については不明であり、大浦氏の居城以前に神社持仏道があったもののように思われるが、明治5年(1872)当地の稲荷神社に移して相殿とした後現在地に復元したものと思われる。棟札には寛政4年(1792)のものと、文政4年(1821)のものとがある。』
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この場所は大浦城の裏鬼門にあたり、現在禅林街にある大浦山海蔵寺の旧蹟となっているようです。正確には長勝寺跡であり、南西100mほどの場所に海蔵寺があったといいます。海蔵寺跡には金比羅様の小祠を残します。海上交通・船の守り神です。
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『当山は明応元年(1492年)西津軽郡鰺ヶ沢町種里に津軽曹洞宗最初の道場として開創され天文3年(1534年)大浦城の南坪貝の地に移転された。開基は津軽藩祖為信公四代の祖大浦盛信公、開山第一世は石見の国花谷の江山智永和尚である。慶長16年(1611年)二代信牧公が弘前城を築き城下町が形成されるに及んで城南金沢の地(現弘前市西茂森)に移って現在に至っている。大浦院殿領山源統公大居士盛信公 天文7年9月16日 華屋貞梁大禅尼室 天文8年8月1日 江山和尚は永禄12年5月14日入寂 この度当所の人小山毅白取久一郎両氏の御協力を得て茲に旧蹟の碑と供養塔を建立し有無両縁の精霊に回向された。昭和57年9月7日 弘前禅林 大浦山海蔵寺第33世大哲正道識』
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元々は種里城にあり、大浦城と共に移転し、現在禅林街にあるんですね。弘前城の変遷と共に移転してきた歴史深いお寺です。
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