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東津軽郡蓬田村阿弥陀川汐干。曹洞宗 龍澤山 正法院。慶長18年(1613)創建。
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山門。
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奈良東大寺の型にならったという2体の仁王尊像は昭和5年に後潟の船大工である工藤源蔵氏が4年の歳月をかけて完成させたもの。
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正法院は弘前長勝寺の末寺で曹洞宗通幻派に属する名刹。
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開山は長勝寺14世聖眼雲祝。
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最初は奥内村大字田沢村にありましたが、信徒の大部分が蓬田村であったために、寛文2年(1662)3月に現在の阿弥陀川村に移転建築。
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寺宝として本尊釈迦牟尼仏、観音菩薩坐像(県重文・江戸時代円空作)があります。
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境内には本堂、庫裡、地蔵堂などが建ち並び、竜王堂は松前藩主が津軽海峡の海上安全祈願所とした龍神を祀っているといいます。かつては松前公が残した挟箱がありましたが本堂改築の際に紛失。
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以下、江戸期以降の阿弥陀川村についてです。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は貞享郷村帳では寛文4年以降の新田として村名が見え375石、寛保高辻帳375石、天保郷帳421石余(うち弘前本では寛政8年改新田46石余)、旧高旧領705石余。当村ははじめ蓬田村の一部であったと考えられ、字汐干の正法院の「竜沢山正法院歴住年代考」によりますと、同寺が寛文2年3月に田沢村(現青森市)から当地へ移転してきた時の様子を「当時ハ未ダ蓬田村ニシテ、阿弥陀川村ト改称スルニ至リシハ尚五十年後ノ事ナルベシ」と記しています。元禄3年には後潟組に属し村位は中。伊能忠敬の「測量日記」によりますと享和2年の家数22。享和2年津軽郡田山館山見継山元帳によりますと、当村には仕立山が2ヶ所あり、この他に当村藤左衛門持の杉仕立1ヶ所があります。文化6年御郡在開発田方調帳によりますと、当村では享和3年から文化6年までに2町8反余の荒田が復興されています。安政6年弘前浦町横内油川後潟四カ組秣場炭焼元帳では、当村の小館に秣場1ヶ所、その他、戸利前沢に秣場1ヶ所が見えます。神社としては字汐干に稲荷神社があります。同社は明治6年から同8年まで後潟村の後潟神社に合祀されています。寺院は字汐干に曹洞宗通幻派に属する竜沢山正法院があります。同寺はもと弘前長勝寺末寺で、慶長18年田沢村に開創されましたが、信徒の大部分が蓬田村に居住していたため寛文2年に当村に移転され、長勝寺14世聖眼雲祝和尚が同7年に開基。また、同寺の境内には竜神を祀っている竜王堂があり、松前藩主が津軽海峡渡海の際に渡海の安全を祈願したといいます。明治4年弘前県を経て青森県所属。同11年東津軽郡に属します。明治初年の戸数33で、村況は「東は海、西に田圃あり、土地下、畑少し」と見えます。また、明治10年頃の陸奥国津軽郡村誌によりますと、戸数36・人口280(男143・女137)、馬63、船3(50石未満艀漁船)、税地は田40町6反余・畑11町9反余・宅地6町余・秣場71町1反余の計129町8反余。物産は米・大豆・薪。明治12年の共武政表によりますと、戸数36・人口284(男144・女140)、馬59、寺院1、物産は米・檜。同22年蓬田村の大字となります。明治24年の戸数49・人口351、廐16、船4。大正2年公立蓬田村消防組が組織され、当地には第3部が置かれました。昭和6年は凶作となり、当地の状況は作付反別49町のうち、3分作以下が39町(見込反別312石)、5分作以下が10町(同120石)となっています。同26年国鉄津軽線が開通し蓬田駅が設置されました。同41年阿弥陀川土地改良区の施行が認可され着工。世帯数・人口は昭和40年153・812、同50年168・727。

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