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五代村の地内を弘前城下から岳へ至る百沢街道が通り、また、地内百沢街道から、築館村・高館村を通って国吉村へ通じる目屋街道と呼ばれる古道が分かれ、両者の分岐点に追分石が置かれています。
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右百沢街道、左目屋街道、中央には岩木山大権現と刻みます。
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弘化2年(1845)10月建立。
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追分石から右の百沢街道方面に進むと才兵衛地蔵堂があります。庄屋紋兵衛書上によりますと、地内に才兵衛地蔵が見えます。
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入口付近の供養碑。上部に四智。
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下部には曹洞宗の参同契(石頭希遷禅師)。「大圓鏡智 為 梅巖道紅禅定門」、「平等性智 經日 靈源明皎潔」、「成所作智 銘日 支派暗流注」、「妙観察智 維時 平成庚寅廿二年八月三日 五代町会」。
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平成22年にこの供養碑と延命地蔵尊の旗が奉納された際の写真がありました。
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堂内。
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案内看板より…『現在、堂は北面しているが、昭和30年代初期までは東面し、堂前は広場をなして、盆には近在の善男善女達の盆踊りの場となっていた。踊りが縁となって相結ばれ、夫婦となった若者もあったと言われるが、これも地蔵が美男であった才兵衛によるものとの古老の話が残されている。才兵衛についての言い伝えは二説有り、一つは美男であった才兵衛が、方々から求婚されたが義理がたたず、出家して坊主となり、生涯妻帯することなく一生を閉じたとするもの。他の一つは、五代に居って、新田開発に力を尽くした恩人とするものである。何れにしても後代の人が、延命地蔵を造像して堂に祀ったものと言われるが、何時の頃かははっきりしない。地蔵は地蔵菩薩が正式の名である。その起源は古代インドの大地神であったものが仏教に取り入れられたものと言われる。我が国では、身代わり地蔵等に見られる現世利益の菩薩、また、死者を地獄から救う菩薩として11世紀の頃から民衆の間にも広く信仰されてきた。本地蔵が集落の外れにあるのは、集落内に悪い病気が入らぬようにとする塞の神信仰を示すものである。他の菩薩像が神を宝髻に結い、頭に宝冠を抱き、胸飾りや臂釧、腕釧等の多くの飾りをつけているのに対し、地蔵菩薩は像形をなしているのが多い。』。
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