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海の駅わんどのすぐ近くです。江戸初期には本町の一部で、本町裏町と称されていました。寛文11年(1671)に米穀を取り扱う米町として分立。
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御祭神は天照大神、猿田彦命。安政2年神社書上帳によりますと創建は寛永2年(1625)ですが、明暦元年(1655)8月、津軽藩士(代官)築舘松左衛門・熊沢覚太郎が鯵ケ沢町奉行勤中に勧請(又は再建)し、その後の万治2年(1659)当町の加藤仁兵衛・平田六右衛門・山本四郎兵衛が再建。明治6年4月村社となりました。
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文化年間(1804~1818)の絵図には伊勢堂と記されております。また、新撰陸奥国誌には『本社の右の方些し高き処に旧毘沙門堂あり、一丁四方許の平地にして、松樹、雑木蓊翳し、閑静の浄地にて、毎六月十六日相撲行業ありて賑しかりしが、明治6年之を廃す。仏像は弁天崎胸肩神社に遷す。林樹の際海上を一望すれば、十三、小泊、渡島までも見わたされて、遠帆の往来、漁艇の出没、一沫の画図の如く、夏月の納涼、秋宵の霄輪、実に当区の佳景なり』と記しています。
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神明神社が鎮座する山はかつての神明館跡地です。
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寛政8年(1796)7月6日に菅江真澄が当神社を訪れて、次のように記しています…『今夜は神明の祭がおこなわれるというのでにぎわっており、なおねぶたのはやしもあるのであろう、まだ日が暮れないうちからその用意がすすめられていた。』。6日は夜宮とねぶたが重なり非常に賑やかであった様子が伺えます。
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神明宮の祭礼は明治36年頃までは旧7月15日に大和田の浜で競馬があり、美しい和鞍を置いた馬に、赤じゅばんにトコマンボ(鳥追笠)をかぶった若衆が乗りました。また、神楽の日の16日には太平洋戦争前まで相撲が行われていました。
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百沢の宮相撲で負けた人は芦萢の宮(芦萢稲荷神社)で仇をとり、芦萢の宮の仇は神明宮で返すといいます。また、見物人は岩木山の雪売りから雪を買って、干餅と一緒に食べていたそうです。雪を売っていたんですね…。昭和10年代の初め頃まで6月1日干餅の歯がための頃には「ヨギーヨギー岩木山のヨギカネガ(雪ー雪ー岩木山の雪買わないか)」と言いながら雪売りが回ってきたそう。神明宮の神楽当日にはもう一つ昔話が残されており、それはイルカの宮参りといい、神楽の日は必ずイルカの大群が神明宮前の海に姿を見せ、また沖へ帰って行くといい、町民の間ではイルカが参詣に来たといわれていたそうです。
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