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皇国鎮護!
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大日本武将祖神!
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御祭神は経津主大神(伊波比主大神)。創建は平安末期。
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『経津主大神は天孫降臨に先だち、天照大神の勅を奉じ武甕槌神(鹿島の神)と共に出雲に降り、大国主命と御交渉の結果、国土を皇孫に捧げ奉らしめ、次いで国内を平定して日本の建国の基礎を築かれた武勇に優れた神様で国運開発・民業指導・海上守護・縁結び・安産の神様更には、武徳の祖神として廣く仰がれております。当神社は、永萬元年(1165年)の葛西御厨の文書、應永5年(1398年)の葛西御厨注文等に鎮守村名が見られ、平安時代の末期、当地開拓のために、千葉県香取郡から六軒の人々が移住し、小村井の氏神様として鎮守しました。大正5年頃まで、老樹鬱蒼と繁茂し円形の森林をなし、鳥類はもとより狸の類も巣を作り、隣地には小村井梅園が存して明治43年頃までは四季の遊びの場所ともなりました。現在の御社殿は、昭和29年の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋流れ造りの総桧造りです。』
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二の鳥居の真裏に浮彫の狛犬っぽいのがいます。
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狛犬。
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拝殿。
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天水桶。
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本殿。
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社殿横の諏訪神社へ。
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墨田区登録文化財の禊盤(手水鉢)。
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『手水鉢は神仏を礼拝するにあたって、参拝者が手を洗い、口をすすぐための器であり、その行為のことを「手水を使う」ともいいます。この慣習は古代から行われていた「斎戒沐浴」の名残で、水で心身の罪や穢れを清める、「禊」を簡略化したものと考えられます。そのために本堂や社殿の前には必ず水を満たした盥や「手水桶」、「手水鉢」などが常備されています。現在、香取神社境内の諏訪社前にある手水鉢が「禊盥」と刻まれていることは、江戸時代後期の篤信者たちがただ単に手を洗うだけではなく、こうした禊の慣習をよく理解したうえで神前に奉納している貴重な例といえます。この禊盥の右側面には「文政11年(1828)戌子6月吉祥日」、左側面には「星塢奏鐘書」、裏面には「氏子中」と能筆で刻まれています。かつては本殿前に据えられていたものです。』
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香梅園…
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写真は季節はずれ(笑)
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小村井梅園の由来。『小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。香取神社の東側に位置し、小村井村字出戸五百十一番に三千三百坪の広さを持ち、切絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有」と記され、毎年梅花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。
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紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く、大きな実も穫れました。園内には、築山や池に多くの名石が組まれ、東西に互り松の大木が二列に並び立ち、鴨・鶯など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣堀もあり、花菖蒲に秋の七草と、多くの人で賑わいまた。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸より四、五町巽の方に在り此の所に香取の社あり、その傍梅園ありて満開の節は薫風馥郁として行人の鼻を穿つ実に新古の梅屋敷にも倍したる勝景…」と記されています。惜しくも明治四十三年の大水で廃園となりました。面影を忍び、此處にその由来を記して記念とします。』
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安藤広重「小村井梅園の図」。
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香梅園の一画に力石がありました(境内には計4つの力石があり「三十九貫目」、「五拾三貫目」、「三十五貫目 重右エ門」等を刻みます)。
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「日露戦役紀念碑」「香取神社御鎮座八百年祭記念碑」「御神木奉納記念碑」など。
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神輿庫と神楽殿。
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神楽殿内。
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天井に龍。
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三峯神社。
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文政13年銘の石燈籠。
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末社群。
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左から天祖神社・水神社・稲荷神社・北野神社。
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ちなみに、地図を見ていましたらと当香取神社のすぐ近くに「花王神社」という神社が見えたので向かってみました。
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…あの花王でした(笑)
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