県指定天然記念物「関の杉」、史跡「関の古碑群」。
入口にあった菅江真澄の道碑。『深浦を出立して鯵ヶ沢に向かう真澄は、寛政9年(1797)5月7日(「つがろのおち」)、関邑の安浄寺(浄安寺)の「しりよりいりて」甕杉、阿弥陀杉をみる。』
『「あみだ杉とて田のほとりにあり」(現在はない)「かめ杉は山ぎはの小高き処にあり、その木のもとに貞和3年(1347)貞治6年(1367)の石ぶみどもたてり」と記している。当時すでにこの杉の下に石碑が置かれていた。』
入口にあった石碑。『有名なる亀杉の下に600年前の古碑あり』と彫られていました。
隣の石碑は『右亀杉通り』と彫られているように見えます。
階段を上って行きます。鳥居もありますね。
階段途中の右手にある供養碑。
由来…『此の供養塔は、阿倍、安倍、安部、安東、安藤、氏族諸精霊位、御成佛、御祈願のために建立。同氏族は、第八代孝元天皇の皇子で四道將軍として古代において活躍なさった大彦命の七氏族の一族であります。第三十六代孝徳天皇御即位の際は左大臣を勤め、その子孫は歴代勤皇派に属し東北地方(陸奥)の捍領使として勤めておった。戦国時代に源賴家の陰謀により、同族、安倍富忠と戦い逐いに源氏と戦争(前九年役)となり、源義家(八幡太郎)陰謀によって、安倍貞任の娘尾上の前と不倫の恋のために味方の軍略が、源氏に漏れ、これが原因で安倍氏は滅亡した。その後源氏は機を逸せず掃蕩の追打ちによって奥え奥え逃れこの僻地に住んだ。その都度、居場所をかえておった。(散乱しておる古跡が物語る。)その後、関の住民の好意により古跡を集め、今は亀杉観音菩薩様の膝もとに身を寄せておるが、悲惨な過去の悪因縁により、成佛の道には容易ならず、弘法大師の指示と、自覚大師のおつげにより(私と子供に霊体現象あり)縣命に御成佛に精励されておる諸精霊の手助けと、関の住民の熱意に応えるべく、我々家族一同は供養塔建立に決意しました。一度詣ずる人々は慈悲甚深の亀杉観世音菩薩様の御守護は勿論のこと精進に励む安倍氏族諸精霊位、御成佛の暁には観世音菩薩様の御光霊の利益を報謝され、罪業如何に重ねても家運は次第に繁昌し。子孫長久円満に諸願成就致します。詣ずる人々は真剣に合掌祈願して下さい。1985年、昭和60年11月吉日。以下、有縁建立者名』
階段途中左手にある平成観音。
更に上って階段途中右手にある亀杉延命地蔵菩薩。
縁起…『阿部忠頼「忠良」従五位上、陸奥捍領使 子貞任「厨川次良太夫」・宗任「鳥海三太夫」・正任「黒沢尻四郎」・重任「比浦六郎」・則任「比与島七郎」 安部貞言「安田三郎大膳」朝臣貞観と号す 貞観律師「十八世の後裔である」以上の如く、祖先代々、地蔵尊の尊信厚く、御遺徳の御恵みの御陰げで、東北一帯、大豪族の隆盛を誇っていた。総師貞任は、慈悲甚深の地蔵尊の意に反し、敵将源頼義の家臣、藤原光貞の娘、千富と深い恋仲に溺れていた。敵将の戦術の陰謀であること知る由もない。尚普段仲が悪い、同族安部富忠の、人馬を計画的に殺害し、安部貞任の仕業と讒言、流言に翻弄された富忠は憤怒「怒り狂う」、貞任の父頼時は富忠へ出向き、敵の策謀である旨、釈明に努めたが理解が得られず、帰る途中、富忠の伏兵の流矢にあたり、帰宅後落命した。父の不慮の死は、色情に溺れた、総師貞任に、慈悲の鞭を与えたが、改心の御悟りを覚れず父の死を悼み、悲しみ、嘆き、相手を恨み、自分の行いを反省する余裕無く、敵将の戦術に的中、遂に同族同志争いになった。「結果論ですが、隆盛を誇った、祖先の御遺徳を偲び、地蔵尊を深く尊信し、讚仰しておれば事前に、御悟りを覚られたでしょう。」敵将源頼義は、永承六年「1051」、第70代後冷泉帝、4月19日崩御後、院宣「天皇の命令」を持たず、兵を起こし、安部氏と全面戦争となった。「前九年役が始まった」総師貞任は、地蔵尊の御慈悲の戒めを覚れず、祖先の御遺徳、御功徳を、自分の働きと錯覚、敵将の娘に溺れた、色情の悪業に反省が無く、本尊地蔵尊の御恵みは勿論、祖先の御遺徳、御功徳に感謝、報恩の精神を魅出すことが出来ず、因果応報「悪因・悪果」総師貞任の娘、尾上の前は、敵将源八幡太郎義家と内通、深い恋仲に溺れ、父と同様戦術と知らず、尾上の前は、父の戦略の機密を漏らした。敵将源頼義、義家は機を逸せず要塞堅固を誇った、厨川柵城「盛岡方面」攻撃し、康平5年「1061」9月17日遂に陥落、総師貞任は戦死、家族全員自害、安部氏は滅亡した。〔注〕総師を始め、不幸に御亡くなった、家族の霊魂に導かれ、正月命日昭和55年9月14日、北金ヶ沢駅員、桜庭氏、元学校長、木村氏の御案内に預かり小生未修行の故、8年経由、今日に至る。斯様な現象から、拝察すれば、安部氏の祖先代々、本尊地蔵尊を厚く尊信し、安部氏滅亡後も、子孫安東氏、阿部氏も厚く尊信して300年、不成仏の霊魂の為に、苦しみ悲しみ、悩みを、本尊地蔵尊に合掌、成仏を祈願し、世を去り乍ら、子孫に遺言をのこした。遺言「一」右逆修者為光阿現当、二世諸願成就、文和二年発巳夷則十五日「1352」。注 逆修とは一死後の幸福を祈るため、生前に仏事を行うこと。626年前「生前にあらかじめ、仏事を修めて、冥福を祈ること」。遺言「二」右志為光印霊異相当也、五日、法界平等利益、延文二年九月二十七日施主敬白。注 法界は広い世界、仏道に縁なき衆生、と嘆く。1357年631年前。祖先は、本尊地蔵尊の御慈悲の御霊光の御悟りを、覚れなかったことを悔やみ、死後の幸福の為に、生前にあらかじめ、仏事を行うよう、警告しております。遺言「三」石塔光心霊幽為者、応安七年「1374」七月十五日敬白、641年前仏道に縁なき衆生と嘆き乍ら、諦めきれず、信ずるものには、必ず平等の利益がありますと、教化に努め励んでおりましたが、死後成仏に至らず、浮遊に苦しむ、霊幽の為に建立。以上の如く、祖先は本尊地蔵尊の慈悲の御悟りを覚れなかった為に、敗戦、不幸に亡くなった家族を悲しみ、嘆き、悔やみ、子孫安東、阿部氏に、再び過ちを繰り返さないよう慈悲甚深の祖師、行基菩薩、化身の弘法大師、慈覚大師の利益を賜わり、昭和63年4月23日15時頃、自然界の御悟しを漸く覚り、霊験顕たか、地蔵尊を新しく、御迎え亀杉延命地蔵菩薩と、御命を頂き、寒村東北一帯、御守護神の御霊光を讚仰し、祖先の遺言、御遺徳、を偲び日々の生活に改心、改善に努め、周囲の人々の、讒言「嘘の放言」流言「口車」に、惑わされず、一生懸命に合掌、祈願申し上げる人々に、模範となって手となり、足となって、悩む衆生を、亀杉延命地蔵菩薩の膝下へ、お導き、尊い御霊光の御利益を預けるよう、精進に励んで下さい。一度詣ずる人々は、悪業如何に重くても、病苦、災厄も、煩悩も、一切消除し、必ず家運は繁盛し、家庭には姑と嫁とが円満に、子孫長久円満成就、間違いありません。以下有縁者名。』
これはしっかりと拝んでおかなくてはなりませんね。
小高い丘の上から見た景色。
浄安寺が見えます。
同所南方の丘陵地は古館といわれる山城跡となっており、鎌倉時代末の津軽大乱(1322-1328)の西浜折曽関はこの付近とされ、城館は安藤季長派のものと考えられています。
金井安東古跡の碑が建立されています(昭和62年7月24日、深浦町長松浦武書)。『鎌倉期から室町期にかけて陸奥津輕の覇者は安倍・安東であった。その領有西浜に雄視した金井安東を閲し累代の慰霊と遺跡を保存の為建立した。』
裏には「安倍安東まつり開催記念之碑」とありました。
甕杉(関の杉)。
近くで見ると想像を超える太さです。
写真では伝えにくい大きさ。
亀杉観音。
馬頭観音。
古碑群の横にもいくつか石碑が並べられていました。
庚申塚一基ほか、古碑群の経緯、忠勤、安東之史跡、亀杉保存会による碑などでした。
お待たせしました。こちらが古碑群です。
西津軽郡深浦町関にある南北朝時代(1338-1392)の板碑形式の供養碑で、同所や近くの村々に散在してあったものを同所の関の杉(県天然記念物)の脇に集められており、その数は42基です。碑面には南北朝時代の暦応(1338-1341)、承和(1345-1349)、貞治(1362-1367)、永徳(1381-1383)などの北朝の年号が刻まれています。碑面で「阿部是阿」「安倍季□」の文字が確認でき、十三安藤氏関係の古碑と考えられます。
案内板より…県指定史跡関の古碑群(昭和30年1月7日指定)『この古碑は61-160cmある大小不同の自然石を使用した供養碑で、この場所から42基出土されており、最も古い碑は暦応(1340)で新しいのは応永8年(1401)と判明しています。この碑には死者の冥福を祈る追善供養碑と、生前に仏事を修めて死後の冥福を祈念する逆修石塔があります。碑面には安倍という姓が刻まれていることからその一族を供養するために建てられたと推測され、また、この周辺には城跡があり、「折曽の関」といわれていることから、歴史的に重要な資料であります。宗派的には"阿号"が判明されているので、一遍上人を開基宗祖とする時宗の信徒によったものと考えられます。深浦町教育委員会』
同じく案内板より…関の甕杉と古碑群(供養碑)『甕杉はこの地方を遊覧した菅江真澄の記録にも図示され、甕の形に似ているのでこう名づけられた。たらちねの大銀杏と共に安東氏ゆかりのものか。推定樹齢は1000年。樹下の古碑(板碑)は南北朝時代(14世紀)安東一族によって建てられ北朝年号が刻まれている供養塔で、付近の田畑に散在していたものをここに安置した。阿弥号の人もあるので時宗の影響も考えられる。津軽深浦』
古碑群は上下2列に並べられています。
最後に説明案内看板より(向かって下段左から1番-18番。上段左から19番-42番)。
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