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江戸初期には本町の一部で、本町裏町と称されていました。寛文11年(1671)に米穀を取り扱う米町として分立。神社としては神明宮、庚申堂、堺屋屋敷の松尾大明神(天正年間勧請)があります。
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寛永11年(1634)創建の庚申堂(庚申猿田彦御神社)。現在は質素な雰囲気ですが、慶安の絵図では立派な神社です。舞戸正八幡宮の社司木村家の先祖木村相模太夫が、山中で神霊に会い、一堂を建立して勧請。『野崎弥惣兵衛尚芳記』の中に庚申堂の由来が記されています。それによりますと庚申堂は当所四社の内に数えられ、町民の信仰が大変篤かったそうです。社司は木村相模でしたが、その子森之進が不行跡があったため改易され、神明宮社司工藤伊賀の子伊予に宮を預けました。森之進が改易されて以来、宮は荒れ果てたため、尚芳の母が小祠を建立して神事を行いました。しかし再興の講中もないので山形屋の手で境内を広めました(最勝院御棟札:庚申講中 大工羽賀宇兵衛 安永二年五月庚申の二日 尚芳三拾九歳也)。堂社の再興を町奉行中畑半兵衛から許可をもらい、前のとおりの社格で恒例の神事を行い、町中から御最花が奉納されたのでそれを町役人に預けました。明治初年の神仏分離によって、一時期は大国神社と称しており、同時に本町の八幡宮に合祀されています。
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堂の西側背後には滝があり、急傾斜地工事のために昔の姿は失いましたが、現在でも水は落ちているようです。この滝の洞には石割不動尊(滝水によって頭の下から2つに割れたため、それをつないで修理した御神体。米町の左官六蔵が伊勢参宮の折に上方から背負ってきたもので飛龍社に祀られていました。安永3年4月28日御鎮座祭。なお、この不動尊の行方は現在不明となっています。※米町神明宮の由緒では、神明宮本社より少し高い場所に旧毘沙門堂があり、明治6年に廃堂となった後、御神体は浜町の胸肩神社に遷したとあります。)が祀られていました。ちなみに現在の社地は災害時非難場所にもなっているようです。
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末社。
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完全に草木に覆われていました。
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隣には猿田彦大神碑(万延元年7月18日・明治24年8月7日)や二十三夜塔などが並んでいます。
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猫少尉。お疲れ様です。
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常夜燈。
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常夜燈由来…『此の燈火は平成元年(1989)4月1日、津軽発祥の地、鰺ヶ沢町種里において採火し、町制施行百周年の火として用いたものである。意義ある燈火をあらためて防火防災の火となし鰺ヶ沢町悠久の平和と発展そして安全を願いつつここに常夜燈として灯し続けるものである。なお、点燈台は寛文9年(1669)公儀(幕府)の命により港に設置された常夜燈(常燈)を模したものである。1990年10月7日』
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